世界の街角

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和歌山市立博物館(4)

2022-06-24 08:28:52 | 博物館・和歌山県

<続き>

大谷古墳出土の馬の甲冑(かっちゅう)、つまり馬の鎧兜(よろいかぶと)が著名である。和歌山市立博物館の来訪目的は、この甲冑を見たいがためであった。まずそれから紹介する。

赤色の四角枠内に白丸で示した、茶色の長方形状のモノが鎧の小札で、これをつなぎ合わせると馬甲になる。馬の兜(馬冑)があまりに著名で、馬甲について触れられる機会が少ないが、この2セットが重要で、日本国内では大谷古墳以外から出土していない代物である。

・・・と云うことで、下手な講釈は省略する。この馬の甲冑出土がおおいなる発見であったが、注目すべきは立派な馬具が副葬されていたことである。

上左端は鈴杏葉(すずぎょうよう)とよぶ馬具の一つ、上中央も龍文透彫雲珠(りゅうもんすかしぼりうず)と呼ぶ馬具である。写真が小さく分かり辛いが、なんとも精巧に作られている。その他に武人が馬に乗った際の鐙(あぶみ)も出土している。

これらの副葬品をみていると、騎馬民族ないしはその末裔が被葬者であったと思わざるを得ない。その他の出土品を下に掲載しておく。

半島渡来の騎馬民族は、古墳時代の人々に比較し身長が高いとも云われており、被葬者は半島からの渡来人であろう。

今回の市立博物館で目にすることができなかったものに、青銅鏡の機能を喪失した寸鏡(すんきょう)群が出土している。

一方で前段で説明した精巧な馬具類が、石棺に副葬されていた。この精巧さと寸鏡の粗放さと好対照である。馬具類は半島からの舶載と考えた方が説明しやすい。

大谷古墳の時期から日本では、馬具の国産が活発化する。そして青銅鏡はより簡素化し、生産も衰退する。もはや古墳時代前期に流行した青銅鏡は影も形もない。鏡の鋳造工人は再編され、馬具を製造する金工集団に組み込まれたものと考えらる。

このように大谷古墳出土遺物は、多くのことを物語っており、山陰の片田舎から出向いたかいがあった。

<続く>

 



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