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北タイ陶磁の魚文様(後編)

2019-09-03 07:04:12 | 北タイ陶磁

<続き>

前回(中編)は、北タイ陶磁の魚文様に中国や北ベトナム等の東方の影響を考察してきた。今回は西方の影響について考えたい。

まずは双魚文である。インド伝来の黄道十二宮の一つである双魚宮やインド仏教の仏足石に描かれる双魚の影響も考えられるが、北タイ陶磁の双魚文は陰陽に配置されたもので、これは双魚宮や仏足石の双魚というより、中国の陰陽道の影響度が高いであろう。北タイ陶磁の魚文は、魚2匹の双魚文のみならず、3匹の魚文もそれなりに存在することが確認されている。代表的な三魚文を以下紹介してみたい。

      (サンカンペーン三魚文盤:Ceramics from the Thai-Burma Border by Sumitr Pitiphatより)

 

(サンカンペーン三魚文盤:京都北嵯峨・敢木丁(カムラテン)コレクション)

20年前のことであるが、敢木丁コレクションの盤を京都・北嵯峨の東南アジア陶磁館で、館長から見せていただいた時はびっくりした。カベットには右向きで回遊するように三匹(尾)の魚文とともに見込み中央には草文が描かれているが、その頭部(見込み下部)は魚で、厳密に云えば四魚文である。この意匠はサンカンペーンにあっては出色である。カベットに描かれた三魚文は他にも存在する。下はシーサッチャナーライの三魚文である。

 

(バンコク大学付属東南アジア陶磁館にて)

北タイ陶磁には、他にもパーン窯・青磁盤の見込みに回遊する三魚文が刻まれている。

その三魚文は、北タイ陶磁のみならずミャンマー陶磁にもみることができる。

 

(ミャンマー錫鉛釉緑彩三魚文盤:ハリプンチャイ国立博物館)

写真の錫鉛釉緑彩三魚文盤は、ランプーンのハリプンチャイ国立博物館で展示されている。見込みに左向きに回遊する魚が3匹描かれている。この3匹に、どのような訳があるであろうか気になるが、その前にもう少し事例をみていくこととする。下の写真は模写したもので、オムコイ山中から出土した錫鉛釉緑彩三魚文盤で縦に三匹並んでいる。

 

(ミャンマー錫鉛釉緑彩三魚文盤:出典 J・C・Shaw著 THAI CERAMICSより模写)

同様なモチーフの三魚文が存在する。それは磚に描かれた三魚文で、ミャンマーの遺跡から出土(多くは盗掘のようであるが)する。その彩色磚は時代幅があるが、下の三魚文磚は15-16世紀頃と思われる。

 

(ネット・オークション出品磚)

このようなミャンマーで焼成された磚は、一般的に一対の動物戦士像や一対の女性像などが多いが、なぜか三匹の魚文である。これらの磚は中世ミャンマーの寺院の基壇を装飾するためのものであり、仏教との関りを暗示しているように思われる。

話が横に反れるが、縦に並ぶ三匹の魚文は、中央の魚が大きい特徴をもつ、これが何を表しているのか、現段階では不明である。

話を戻す。三魚文については、インドから更に西の方、ペルシャの中世の陶磁器にも三魚文を見る。版権の関係から水彩で模写したペルシャ緑釉三魚文盤を紹介しておく。ペルシャといえばイスラム教の国である。それと三魚文の関係が掴みきれないでいる。

 

(ペルシャ緑釉三魚文盤:模写)

以上、陶磁器文様としての三魚文を紹介した。ペルシャ陶磁を除くとタイとミャンマー陶磁であり、存在するのかどうか不詳ながらクメールと安南陶磁には三魚文を見た記憶がない・・・これは何故だとの疑問と共に、なぜ三魚文かとの疑問が湧く。

これは何やら西方の匂いがする。やはりトリムルティー(トリムールティ)であろう。三神一体とのヒンズー理論である。三神一体とは、ブラフマーとビシュヌ、シバは同一で、これらの神は力関係の上で同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相に過ぎないとする理論である。つまり三匹の魚は、ブラフマー、ビシュヌ、シバと捉えることができる。この三神一体とは、キリスト教の三位一体と似ている。それは父なる神(父神)、神の子(子なるキリスト)、(聖霊)の三つが「一体(唯一神)」であるとする教えと同じであろうと思われるがどうであろうか。トリムルティーは、仏教にも三宝として取り入れられた。三宝とは、仏・法・僧の三つで、三宝に帰依することにより仏教徒とされる。

タイではスコータイ王朝やランナー王朝で、王権の補強として仏教を取り入れた。その仏教とは上座部仏教であることを御存知の方は多いと考える。上座部仏教における伝統的な教理書に三界経(Traiphum トライプーム)がある。タイでは『トライプーム・プラルアン』がスコータイ朝で編纂された。三界とは仏教でいう欲界,色界,無色界を指しており、三界経は「悪いことをすると地獄に堕ちる」という因果応報の観念を説き、地獄の様子を生々しく描いた。

 

(チェンライ:ワット・ロンクンの地獄)

写真はチェンライに近年建立されたワット・ロンクンの地獄のオブジェである。また次の写真はバンコクのワット・サケットの地獄絵である。このワット・サケットの地獄絵は、14-15世紀の中世ではなく、時代的には近世のものではあるが、三界経の世界を表している。

 

 (バンコク:ワット・サケットの地獄絵・現地にて)

三界経は上記と同時に「民衆の現社会的地位(貴賤)は前世の行いによる」という観念を普及させた。これが説くところは、特権階級にある人は前世の行いが優れており、貧富の差を結果的に肯定した。スコータイやランナーの歴代王は、このようなトライプーム・プラルアン(三界経)に見られる、仏教的宇宙観に従って国王=須弥山というイメージを使用し、王国下の民の支配と統合のイデオロギーとして使用したと云われている。

中世より時代は下るが、ランナー領域であるチェンマイ県メーチェム郡にワット・パーデートなる寺院が存在する。残念ながらチェンマイからは遠すぎて、未だに行くことができていないが、その布薩堂は1888年の建立という。

 

(ワット・パーデート布薩堂  出典:グーグルアース)

その布薩堂入り口を入った、すぐ左手の側壁に壁画が描かれている。それは須弥山世界図の全景で、釈迦の忉利天からの降臨を表したものである。その中央部にはインドラ神(タイでプラ・インと呼び、日本では帝釈天と云う)より下層に住む神々(天)が、左側下部には地獄の釜に入れられた亡者の姿が描かれ、右側は釈迦の降臨場面が、須弥山の基底部は大海で大きな魚が描かれている。

 

(出典:山野正彦氏論文)

大阪市立大学教授・山野正彦氏によると、ワット・パーデートの壁画のインドラ神、須弥山、大海などは、王が背後に宇宙を背負い、コスモロジカルな権力を付与されることを象徴しているとし、忉利天(須弥山の頂上)から下界に降臨してくる仏陀の姿は、王に化身して現世を治めているというイメージを強く沸き立たせるとしている。これらの事柄がランナー朝建国当時の宮殿なり、守護寺院の壁画に描かれていたかどうかは不明である。しかし、牽強付会のような気がしないでもないが、中世ランナー世界もこのようであったかと、考えている。                    

以上、多少くどくなったが三魚文は、西方の影響を受けた文様であろう。ところが少ない事例ながら東方・中国にも三魚文が存在する。

 

(中国・荊州博物館HPより)

写真は前漢初期(前2世紀)の彩漆三魚文耳杯で、湖北省荊州市江陵鳳凰山168号墓から出土したもので、時計回りに3匹の魚が回遊している。前2世紀と云えば中国への仏教伝来前である。従って西方の三という聖数の影響とは考えにくいが、中国独自に三魚文が創造されたのであろうか・・・これについては的確な答をもたない。中国では『三』は発音が“財”と似ているため、蓄財を意味し縁起が良いとする。合わせて魚の卵は多産であり、家門繁栄を意味する。それが文様に採用されたと思われる。

このように中国でも文様に三魚文をみるが、それは漆器の装飾で陶磁器文様に採用されている事例は、少ない管見ながら未だ目にしていない。                   

やはり三魚文は、西方の影響が大きいであろう。先にトリムルティーについて述べた。古代のタイはドバラバティー王国の地でモン(MON)族の都市国家であった。そこにはインドのヒンズー思想の影響を濃厚にうけた遺跡や遺物が残る。その一つがエラワンである。エラワンとは三つの頭をもつ象で、インドラ神(プラ・イン、帝釈天)が騎乗する乗り物である。近年の開館ではあるが、バンコクの南郊サムットプラカーンにエラワン博物館があり、そこに三つ頭のエラワンが鎮座している。                  

 

(エラワン博物館のエラワン像)

これと同じ形をした陶磁器で、中世・カロン窯のエラワンの香炉なしは灯明がある。

 

(ピサヌローク・サワンカローク陶器博物館)

総高40cm以上もあろうかと思われる焼物で、実に堂々としている。以上、紹介してきたこれらを見ていると三という数は、やはり西方の影響を受けた数であろうと考えられる。その結果としての三魚文であったのである。以上、何故三魚文かについて述べてきた。

次に何故タイとミャンマーか・・・について検討してみたい。つまり同じ東南アジアにあって、何故安南やクメール陶磁に三魚文を見ないのか・・・という命題である。これは数を見ていない経験不足とも考えられるが、この不思議な現象の底流には民族の影響が考えられる。             

先に紹介したように、古代以来タイ中部はモン(MON)族国家であったドバラバティー王国が繁栄していた。北タイのチェンマイ盆地は、同族のハリプンチャイ王国の地であった。更にモン族の本貫の地は、アンダマン海に臨むミャンマーのマルタバン湾沿岸である。いずれもモン族と繋がる地域で焼成された焼物に、三魚文の装飾陶磁を見ることができる。これ以上の根拠を持たないので、上述のことが当てはまるのか、いささか自信はないが、今後追求してみたい謎のひとつである。

以上、3回に渡って「北タイ陶磁の魚文様」と題して、日頃感じていることを紹介してきた。これらをまとめると以下のように集約される。

1)陶磁器文様のみならず装飾に魚が登場するのは、古来から『米と魚』は切っても切れない関係にあった。

2)その魚文の形は、北タイにおける古くからの稲作に関する伝承に基くものと、陶工や画工の鋭い観察眼に依るもので、北タイ独自の形と姿であった。

3)しかし乍ら、元時代の鯉科の魚文が安南経由でカロンに至り、それを参考に絵付けされた陶磁器も存在した。

4)双魚文については、その大多数が陰陽配置で描かれることから、中国の故事にならったと考えられる。

5)三魚文は西の方、インド思想の影響が考えられるが、タイとミャンマーの陶磁器に見えて、安南とクメールの陶磁器に見ないのは、民族の相違とは思われるものの確証はない。

以上、タイや東南アジアでは古来、東西交易の中継地であると共に、幾多の民族が攻防する地でもあった。彼の地の不思議の原因はそのような背景が在ったものと思われる。

 

<了>

 


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