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国立科学博物館の丸木舟による渡海で考えたこと

2019-07-13 07:02:33 | 古代と中世

去る7月7日、台湾東部・台東県北部より与那国島を目指して丸木舟が出航した。7月9日、無事に到着したとのニュースである。国立科学博物館の長年のプロジェクトである。

3万年前(旧石器時代)の航海を徹底復元するとして、台湾杉の丸太を石斧で切り倒すところから、与那国島への航海と到着までのプロジェクトである。石斧で丸太を切り倒すまでに一万五千回以上も石斧を振るったという。

5人が乗船し、黒潮を横断するため台湾東部の台東県北部から舟出し、約200kmを45時間10分の航海で与那国島に到着した。ノット表記すべきであろうが時速4.4kmに相当する。結構速い印象だ。丸木舟の全長は7.6mであったよし。

乗員の一人はインタビューで渡海の時に、周囲に何も見えない時があり困惑したとの談話である。

視界(視程)と視力を無視すれば、海の上から見える陸地は、海面からの自分の目の高さと陸地の標高によって決まる。与那国島の宇良部岳の標高は231mであるので、約55km沖合から島を視認することができるが、54-55km先が見える視界はそうざらにはないであろう。

しかし、与那国島や台湾(平地からは視認できない、高い山から与那国島を臨むことは可能)から双方を視認できる日時は、それなりに存在するようで、双方の最短距離は約110kmである。

太魯閣の中部山岳地帯の最高峰は合歓主峰で標高は3417mである。花蓮市街から40kmの位置で、これを差し引いたとしても、少なくとも150km沖合から視認できる。夜は星座を見て昼は台湾の陸地を見て航海できそうだ。黒潮の流れを横断できた頃に与那国島を臨むことはできるであろう。そのような視界の良い日を選んで船出したのに違いない・・・とすれば、波が穏やかで視認距離が優れた日は年間でもそう多くはなさそうであるが、その少ないイチャンスを目がけて古代人は船出したであろう。いずれにしても渡海可能なことを今回のプロジェクトは証明してくれた。

柳田国男の南海渡来説は存在したのである。コメは朝鮮半島南部経由説のみならず南海の道も存在したのである。

撰者が王充(27-97年)の書に『論衡』がある。

周時天下太平倭人来献鬯草(異虚篇第一八)・・・周の時、天下太平にして、倭人来りて鬯草を献ず

成王時越裳献雉倭人貢鬯(恢國篇第五八)・・・成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は鬯草を貢ず

周時天下太平越裳献白雉倭人貢鬯草食白雉服鬯草不能除凶(儒増篇第二六)・・・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し暢草を服用するも、凶を除く能わず

周の成王といえば前1020年頃、つまり縄文時代晩期にそうとうする。この当時から中国では日本列島などの住人を倭人と呼んでいた。白雉は食され鬯草は服用されたようだ。鬯草は酒に浸す薬草と考えられていたようである。この草は江南から南の植物で、越と並んで記されていることから、倭人を呉越と何らかの繋がりがあると認識していたものと思われる。

古代の邪馬台国前期は、朝鮮半島経由の渡来人云々より、南海経由の渡来人の世界であったであろうか?・・・それを国立科学博物館は証明してくれたとも思われる。

 

<了>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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