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北タイ陶磁の源流考・#3<2010年考察のサンカンペーン窯創業考・#2>

2017-01-05 06:13:25 | 北タイ陶磁
<続き>

以上の事柄から若干の空想を御許し願いたい。磁州窯の特徴は、白化粧と鉄絵文様である。金の大軍が南下して、北宋が滅びる頃に、磁州窯の陶工が南下し、江西省の吉州窯に身を寄せた。その吉州窯で白地鉄絵の焼物が作られたが、後年元朝の南下により、一派は広東省周辺へ、或る一派の陶工は景徳鎮へ逃れ、元染め誕生の下地を作った。これらの元染め、明初の青花磁器が海沿いの交易や、陸路を経由して大越国に伝わるとともに、揚子江や紅水河、更にはホン河沿いに雲南へ至り、玉渓窯や建水窯の器形や文様デザインへ影響を及ぼしたのである。---これらは、史書や金石文の記録が残っている訳ではなく、まったくの空想である。
陳朝期の安南陶磁がシーサッチャナーライやスコータイ陶磁に影響を与えたとして、安南青花魚藻文皿と、東南アジア陶磁館のスコータイ窯鉄絵魚文皿を事例に、関千里氏はその共通性を指摘されている。これについては、タイ北部諸窯の窯址や、タイ西部山岳地域の埋葬地から安南陶磁が出土することもあり、何がしかの影響を感ずるが、氏の指摘とは異なり魚文の形は、共通性は少ないと思われ、タイでその形が変化したと捉えるのが自然である。しかし、陶工がデザインのサンプルとして活用したことは容易に想定され、その意味では影響を与えたことになる。尚、タイの識者もタイ北部諸窯の特徴として、鉄絵文様に大越国の影響が考えられるとしている点を付記しておく。
メンライ王死去の頃より、元朝治下の雲南行省府に朝貢し、第8代・サームファンケーン王の時代まで、朝貢を繰返した史実がある。雲南の玉渓窯、建水窯の青花文様は、元染めの文様が崩れているというか、簡略化されているが、その特徴である魚藻文、花卉文をもつ盤や玉壺春瓶などで、窯址の青花碗の見込みには花卉文や仏杵文(独鈷文)が描かれ、これらは明初の特徴をもつと云われている。また玉渓窯の灰釉調の青磁は倣龍泉窯とされているが、タイ北部窯との類似性を指摘する識者もいる。小生は、タイ北部諸窯は磁州窯や安南陶磁よりも、雲南の影響を考えている。確たる証明はできないが、傍証は幾つか存在する。それはカロン窯の十字に交差した独鈷文の碗に見ることができ、簡略化された唐草文や草花文の類似性は高い。
しかしながら玉渓窯址の構造と、タイ北部諸窯の構造には、大きな開きがある。
玉渓窯のそれは龍窯と呼ぶ、長さ30m以上もある窯址で、タイ北部諸窯はせいぜい4-5m程の単室窯である。
元朝のメコン河に沿った雲南から東南アジア北部地域への南下、更にはランナー朝の雲南行省府への朝貢や、中国陶磁のタイ北部から西部での出土を考えると、彼の地との交易や人的交流とともに、雲南諸窯の影響は十分に考えられる。だが、これとて考古学的に実証できてはいないが、何よりもタイ族本貫の地は雲南なのである。
しかし、関口広次氏の報告によると、雲南省孟海(モンハイとは景洪に近く、旧ランナー朝の北限にあたる)でタイ族が単室窯で施釉陶器瓦を焼成している現場を見学されたとのことである。高さ約2m、長さ約3m、幅は約2mで、丘陵の端を利用して粘土で築かれていた。天井部やや後方に煙窓が設けられ、煙突はなかった。氏によると古代中原地域で発達した竪穴窯から横穴窯への発展過程での過渡形式の構造とのことである。このタイ族の単室窯が、現代に彼らの手で突然生まれたとは考えにくく、何らかの伝承が介在しているものと考えたい。この窯とタイ北部古窯址の構造は似ているのである。しかしながら前述の通り、確証にはならない。雲南から西双版納の考古学的調査が望まれる。




                                  <続く>



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