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稲作漁撈文明(弐拾参)

2021-09-23 07:43:00 | 日本文化の源流

稲作の日本列島への伝播

以下、安田教授の著述内容である。”日本列島への稲作の伝播の証拠は、佐藤洋一郎氏による稲のDNA解析によって、新たな段階へと発展した。それによれば、日本への水田稲作の伝播は、確実に縄文時代晩期の3000年前に遡る。さらに、縄文時代後期の4000年前まで稲作の起源が遡る可能性が大きい。ただし縄文時代後期に伝播した稲作は、佐藤氏によれば熱帯ジャポニカであり、焼畑のような状態で栽培されたとみなされている。これに対し、温帯ジャポニカを水田で栽培する稲作は、縄文時代晩期の3000年前に伝播した。

その伝播経路も、陸路で大陸経由で朝鮮半島を南下する伝播ルートは、完全否定され、いずれの場合も黄海か東シナ海を越える海の伝播ルートが重視されるようになった。

佐藤氏は中国・朝鮮半島・日本の在来の温帯ジャポニカ250品種のSSR型を分析した結果、8つの変形版の構成に、3つの国で大きな違いがあることを発見した。中国の稲のSSR型はa~hの8つの変形版をすべて含んでいた。ところが朝鮮半島のそれはbを欠如する7タイプであった。そして日本の変形版はaとbの2タイプしかなかった。このことは、8タイプすべてをそなえている中国が温帯ジャポニカの故郷であることがわかる。日本にaとbの2タイプしかみられないのは、稲作が日本に伝播する過程において、ほかのものが欠落したとみなされる。一方、朝鮮半島ではbタイプの変形版が欠落していた。中国大陸でのa~hの8タイプの変形版の構成は、bタイプが7割以上を占めている。にもかかわらず、朝鮮半島のSSR型の変形版は、中国でもっとも優占するbタイプを欠落していたのである。

日本の2タイプはaとbであった。このことは、日本列島への温帯ジャポニカの水田稲作の伝播に関しては、朝鮮半島を経由することなく、直接東シナ海を渡って日本列島に伝播したグループがあることを物語っている。一方、縄文時代中期に遡る可能性が大きい熱帯ジャポニカの伝播は福建省などから台湾そして沖縄をへて南九州に到達する柳田国男の「海上の道」が、伝播経路としてもっとも有力であったと佐藤氏はみなしている。

なお栽培稲にはインディカとジャポニカが存在する。かつて長江流域には、インディカとジャポニカが混在していたというのが定説で、考古学者の大半は、このことを根拠に「長江流域にはジャポニカ・インディカ双方のコメが存在する。ところが現在出土しているものはすべてジャポニカである。したがって、長江流域から華北へともたらされ、寒冷地にも適すように一定の訓育を受け品種改良を加えられたジャポニカが、山東半島方面から朝鮮半島を経由して日本へ伝えられた」と指摘していた。

しかし、佐藤氏や矢野梓氏が長江流域の稲籾のDNAを分析した結果、長江中・下流域にはインディカは存在せず、すべてジャポニカであることが明らかとなった。このことから朝鮮半島経由説は、成立しないことが明らかとなった。

佐藤氏によると栽培稲作は、長江流域からの直接渡海の可能性について言及されている。稲作が江南から九州へ渡来したとする説は、多くの農学者も支持している。松尾考嶺氏の『栽培稲に関する種生態学的研究』によれば、アジア各地に栽培される666品種を採取し、精密に形態、生態、生理的分類を行ったところ、日本の水稲に最も近似する品種は、朝鮮半島のものよりも華中のジャポニカの一群であることが証明されている。

さらに雑草に造詣のふかい笠原安夫氏は、岡山市津島遺跡の水田跡で検出された雑草種子89種は、東南アジアから華中にかけて分布する雑草が大半で、長江以北には見られないものが多いと云う。水田の雑草を稲の随伴物とみる限り、このことも江南以南からの渡来を裏付ける根拠となる。・・・以上である。

(津島遺跡水田跡)

(津島遺跡復元倉庫:これは単なる想定復元ではなく、倉庫の部材がすべて出土したものを復元したものである)

考古学者のなかには、戦前の皇国史観の反省かどうか知らない(多分、進歩的だと自画自賛?)が、今日も朝鮮半島渡来説を主張する御仁が多々存在する。その論拠が崩れたことになる。なんでもかんでも、半島渡来との説に蕁麻疹がでる思いであったが、佐藤洋一郎氏の研究や安田喜憲教授の著述内容に触れ、スッキリして喜ばしい。但しaタイプは朝鮮半島、日本の双方に存在するので、aタイプの一部は大陸からの直接渡海、一部は朝鮮半島から持ち込まれた稲も存在するであろう。しかし朝鮮半島経由はメジャーではなかったと思われる。

<続く>