<続き>
魏志倭人伝には『其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度り、千余里にして対馬国に至る。』とある。当然と云えば当然であるが、邪馬台国の時代は既に朝鮮海峡を渡海・横断していたのである。対馬上島より最短の巨済島を目指したであろう、見晴らしがきけば対馬から巨済島が視認でき、その最南端の加羅山は標高585mである。対馬からその巨済島までの距離は49.5kmしかない。
(対馬・有明山(558m)より巨済島をお望む:対馬観光物産協会ブログ)
過去、準構造船で朝鮮海峡を渡った「野生号」は、平均時速1.7ノット(3.15km)であったとの記録が残っている。してみれば邪馬台国の時代、対馬国と狗邪韓国の間は16時間ほどで、遅くとも一昼夜で横断可能であったと思われる。
では、邪馬台国の時代はどのような船であったろうか。弥生期の準構造船と呼ばれる船の部材が出土したのは、鳥取市・青谷上寺地遺跡、滋賀県守山市・下長遺跡と赤野井原遺跡、福岡県前原市・潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡である。これらは部材の一部なので、それらを参考に全体像を描くしかないが、縄文の丸木舟と古墳時代の準構造船の中間で、舳先と舷側版を持つ船と思われる。先日、前編で掲載した兵庫県立考古博物館展示の準構造船は、古墳時代の復元船である。
弥生時代を下る古墳時代の準構造船は、宮崎県西都原市・170号墳(6世紀始め)の出土土器(埴輪)が著名である。
(宮崎県HPより)
以下のことも当然と云えば当然であるが、半島側の準構造船とよく似ている。金海国立博物館でみた準構造船の土器である。
(三国時代:5世紀 金海国立博物館)
舳先をもっており、弥生期の準構造船に近い形である。いずれにしても日本列島と半島南部の船形は近似しており、列島側の文化水準が必ずしも遅れていない証左であろう。
米子市稲吉角田遺跡から弥生期の線刻土器が出土した。
舳先が反りあがったゴンドラ風の舟に、櫂をもち頭に鳥の羽を飾る人が乗っている。舳先が反りあがるのは準構造船の特徴である。このような船で渡海したのである。しかしこの羽人は南海の特徴でもある。ドンソン銅鼓にそれを見ることができる。してみれば南海からの渡来人がいたと考えてよさそうである。
(出典:西村昌也『北部ベトナム銅鼓をめぐる民族視点からの理解』)
弥生時代を遡る縄文時代の丸木舟を復元し、台湾から沖縄へ渡海するプロジェクトが動き出し、以下の計画であると云う。つまり南海ルートの実証実験である。
是非成功し、渡来人は朝鮮半島からのみの印象を論破する材料を提供して欲しいものである。
話しが逸れてしまったが、弥生期の古代人はフロンティアの旺盛な人々であったろうと思われる。海を介して活発な交易をおこなったのである。
<了>