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北タイ陶磁に魅せられて:第3章

2019-06-18 08:53:30 | 北タイ陶磁

昨年10月に不定期連載と称してUP-DATEしてきたが、昨年12月28日に第2章をUP-DATE以降中断していた。不定期連載ながら以降は、もう少し間を詰めて紹介したい。先ず、第1章と第2章が間があきすぎたため、そのレビューから始める。

第1章:ラーンナー古陶磁を訪ねて

第2章:ラーンナー古陶磁の窯址を巡る・カロン窯址編

 

サンカンペーン窯は、チェンマイの東25kmのピン川支流で、ピュー川渓谷の麓に80基以上の窯址群が横たわっており、その総称としてサンカンペーン古窯址と呼びます。そこはサンカンペーン郡オンタイ地区で、チェンマイとランプーン更には、南100kmのランパーンとの交易ルート上にあり、そこに住まいする人々に陶磁を供給することができました。サンカンペーンが窯業地となったのは、前述の交易上の利点と、近隣および当地から燃料、水、陶土や化粧土を入手することができたことによります。

サンカンペーン窯の成立については、ヨドヒストラ王子がピサヌロークからランナーへ帰順したさいの1451年に、連れて来られた陶工により操業されたとする説、更にサワンカロークからの陶工が、戦争捕虜として連れて来られ、それらの陶工により操業した説等々が存在しますが、今日ではこれらの説は否定され、先にCHAO 365号で紹介したバンコク考古学センター・サーヤン教授の『C-14炭素年代測定法』と呼ぶ炭化物の化学分析により、13世紀末には操業を開始したのではないかと云われています。そして盛時は14世紀から15世紀の間でした。

サンカンペーン窯の存在を初めて明らかにした故・ニマンへーミン氏は1952年に、83基の窯が操業していたと公表していますが、1970年のタイ芸術局の調査では、83基は過小評価の可能性が高いとしています。窯は数平方キロの範囲に群れをなして散在しており、主にMae Pa Haen(Maeとは川)とMae Lanに沿った周辺に存在しています。その領域はバン・パトゥン(パトゥン村)とバン・ポン(ポン村)にまたがっています。                                    

 

窯址巡りの前に予備知識が習得できる所を3箇所紹介しておきます。先ずは改装後のチェンマイ国立博物館です。紙数の関係で詳細は述べられませんが、改装後は陶磁器関係の展示コーナーが一新されました。写真のように窯の焚口と焼成室を模したジオラマ展示が出迎えてくれます。

(チェンマイ国立博物館ジオラマ展示 チェンマイ国立博物館にて)

そしてサンカンペーン窯址から出土した完品や陶片が数多く展示されています。その数は改装前に比較し大幅に増加しており、サンカンペーン焼の概要が把握できます。また嬉しいことに改装後、写真撮影可能となったことです。尚、国立博物館に向かって左手奥の建物が、タイ芸術局第8支所です。北タイの窯址に関する情報がゲットできるものと思われます。

2箇所目は、チェンマイ大学考古学資料室です。ここではサンカンペーン焼としては、大変珍しい装飾の陶片を見ることができますが、やや専門的であることと敷居が高いため、パスしても良いでしょう。

3箇所目はオンタイ地区パトゥン村のワット・パトゥン付属博物館です。道順については、後程窯址巡りの項で紹介します。ワット・パトゥンの山門を入ってすぐ右手が下写真の付属博物館です。建物の入り口にはピピッタパン(博物館)との表示があります。                                           

(ワット・パトゥン付属博物館 現地撮影)

この付属博物館では、窯の焼成時に用いられた窯道具を見ることができます。それが下の写真です。これを見ると口縁(こうえんと呼ぶ:CHAO365号の用語参照)と口縁を重ね、高台(CHAO365号の用語参照)と高台を重ねて焼成する、重ね焼きの技法が用いられていたことが分かると思います。

(ワット・パトゥン付属博物館・重ね焼き展示 現地撮影)

この重ね焼きは、小型の窯で焼成効率を高める、つまり数多く焼き上げるため工夫されたものでした。そのために盤や皿の口縁の釉薬を拭き取り、口縁同士が付着するのを防止しています。この口縁に釉薬が無い盤と皿は、サンカンペーン焼の大きな特徴です。

●窯址巡りで注意したいこと

ランナーの窯は小形で規模が小さいのが特徴で、行政による保護が十分ではありません。窯址は私有地に在るのが殆どで、窯址巡りをしようとすれば、私有地に踏み込むことになります。無用なトラブルを避けるため、下記の配慮が必要です。先ず窯址を所有する地主を探し出してください。地主に案内頂ければ何ら問題はありません。運悪く地主に巡り合うことができなければ、村長を探し出し窯址位置の情報をゲットすると共に、窯址を訪問する旨伝えてください。それも出来なかった場合は、窯址の地理に明るい村人を探し、その人に案内してもらって下さい。くどいようですが、言葉も分からない日本人が単独でウロツクことは差し控えてください。従って窯址巡りには、タイ語を流暢に操ることができなければ、タイ人日本語ガイドの同行が不可欠です。尚、地主等々の案内をしていただいた方には謝礼が必要でしょう。

国道1317号でプロムナーダの前を通過し、サンカンペーン方向に向かいます。やがてランプーンに向かう国道(旧県道)1147号の分岐に至ります。そこを右折して道なりに直進するとパトゥン村で、右手にはワット・パトゥンが見えきます。そこには先に説明した付属博物館が在りますので立ち寄りましょう。

 

〇ワット・チェンセーン古窯址

いよいよ窯址巡りです。ワット・パトゥンの前を直進すると2-3kmで、左手にワット・チェンセーンが見えてきます。その斜向かい、つまり進行方向右側にワット・チェンセーン古窯址が在ります。そこは公的機関の管轄下にあり、見学のための許可を得ることは不要と思われます。写真は二十年前のものです。写真のような覆屋で保存されていましたが長年の風雨で朽ち、近年再整備されました。

(ワット・パトゥン古窯址全景 現地撮影)

(ワット・パトゥン古窯址 現地撮影)

次の写真が2018年に訪問した時に見た、新しい覆屋で四方に回廊が設けられ見学し易いように改善されています。

(ワット・パトゥン古窯址・新覆屋 現地撮影)

窯址を見ると、目分量で長さ3m程度の非常に小さな窯であることが分かります。ココでは翠色の鮮やかな青磁鉄絵双魚文盤や青磁鉄絵草花文盤、さらには青磁の高坏などが焼成されました。                                      

 

〇トン・ジョーク古窯址

次にトン・ジョーク古窯址を紹介します。ワット・パトゥンの手前にポン村の入り口ゲート(写真参照)が見えます。冒頭の窯址位置図の矢印方向に進んで、その入り口ゲートを越えて直進することになります。

(バン・ポン入り口ゲート 現地撮影)

しかし具体的な窯址位置が分からないので、事前にワット・パトゥンの僧侶に在処を尋ねると、ポン村の村長を紹介すると電話して頂きました。そして村長宅を訪ねたところ、懇切丁寧な教示を受け、現地で迷ったら電話せよと携帯番号まで教えて頂きました。教示頂いた窯址が窯址位置図にプロットした地点です。教示に従って先ず着いたのは、Mae Lanダム湖の東側の細長い広場です。この細長い広場のどこに窯址があるのでしょうか?・・・お言葉に甘えて早速電話をしました。その後暫く左右を探すと、奥に向って右側に比較的程度のよい窯址があり、何か調査をしたような痕跡がありました。

(トンジョーク古窯址 現地撮影)

(トンジョーク古窯陶片 現地撮影)

その窯址はワット・チェンセーン窯より僅かに小型で、煙道を含めても3m程と思われます。周囲には多くの陶片が転がっていました。見ると貫入のある青磁釉の破片で、見込みに鉄絵のある破片は見つかりませんでしたが、口縁に鉄絵圏線のある破片を目にしたので、鉄絵文様の盤を焼成していたことが伺われます。この窯址はトン・ジョーク窯址群の一つですが、個々の窯址名称が不詳であり、とりあえずトン・ジョーク古窯址と表現しておきます。尚、トン・ジョーク窯址群の多くはMae Lanを堰き止めたダム湖により、その湖底に沈みました。従って今日目にできるのは僅かの窯址のみになりました。

ここでサンカンペーン窯と呼ばれる窯址群の特徴を説明し、窯址巡りの項を終えます。下の表を見てください。ランナーの窯に共通するのは小形の穴窯(横焔式単室窯)ですが、なかでもサンカンペーン窯は3.5m未満と最も小さいものです。

(窯サイズ比較表 出典:Ceramics in Lanna:サーヤン教授著)

これらの窯の幾つかは平地に近いところに築かれています。粘土構築の窯が多いのですが、幾つかは煉瓦が確認されているので、それと粘土で構築されていたものと思われます。サーヤン教授は地下タイプの横焔式単室窯と述べていますが、ワット・チェンセーン窯の写真を見ても分かるように、地表から窯までの距離が浅く、半地下式であったろうと思われます。これらの窯址を訪れると、長年の風雨によって壊れており、全容を留めるものはありませんが、その窯址の状況からチェンマイ国立博物館前庭に移築復元されている地下式のカロン・ワンヌア窯と形状は同じであったろうと云われています。それは地面を僅かに掘り下げた、煉瓦と粘土による窯です。小型の窯であり大型の器物を焼成するのは不向きでありますが、高さ50~60cm程の壷も焼成されました。   

 サンカンペーン陶磁の最もポピュラーな文様は双魚文で、ホテルのデコにも用いられています。写真は、現U-NIMMANホテルのトレードマークで、改築前の旧・アマリリンカム・ホテルのそれでもありました。

(U-NIMMAN HOTELトレードマーク)

この文様は、鉄絵双魚文と呼ぶのですが、尻尾が非常に簡略化されて描かれているのが、サンカンペーンの魚文の一つの特徴です。

先ずサンカンペーン焼の種類から説明します。一番多く焼かれたのが盤や碗と皿の類です。それと共に焼かれたのが大壺、ハニー・ジャーと呼ばれる二重口縁壺、中小型の壺・瓶類、高坏、僅かですが建築用材もあります。盤については後程説明しますので、ここでは3点の壺・瓶類を紹介します。

(サンカンペーン・灰釉玉壺春瓶:チェンマイ国立博物館)

(サンカンペーン・青磁盤口双耳壺:町田市立博物館)

写真のように二段になった口部を盤口と呼んでいます。この口部の形状は北タイ陶磁の一つの特徴です。

(サンカンペーン・褐釉掛分け広口双耳大壺:チェンマイ国立博物館)

高さ60cmに及ぶ大壺で見事なものです。濃淡の褐色釉を掛け分ける手法は、クメールの影響を受けているとの説もあり、何らかの影響があったであろうと考えられます。

それでは最も多い盤類について説明します。盤類は装飾技法によって大きく3分類されます。その装飾技法別の凡その割合は以下の通りですが、これらのデータは筆者が記録に残している200点を越える盤・皿から導き出したもので、実態を反映しているかどうかについての保証はできませんが、データの数からそれなりの確度であると考えています。                                       

①   鉄絵装飾               約60%

②   印花装飾(判子を用いて装飾する技法) 約20%

③   その他の装飾技法           約20%

サンカンペーン焼も、北タイに多い鉄絵文様の盤類が多いことが分かります。尚、用いられている釉薬は青磁釉、灰釉、褐釉で各々濃淡を持っています。このうち褐釉以外は、下地の上に白色粘土の泥漿(でいしょう)で化粧掛け(スリップ掛けとも云う)されており、これがサンカンペーン焼の特徴です。それでは具体的な装飾文様別に多い順に下記します。

鉄絵双魚文を筆頭に印花双魚文、鉄絵草花文、打刷毛目文(*1)、鎬文(*2:説明下記)、鉄絵幾何学文の順で、これらで全体の7割を構成しています。これらの内から幾つかの事例を下に紹介します。                             

(サンカンペーン・青磁鉄絵双魚文盤:チェンマイ国立博物館)

(サンカンペーン・褐釉印花双魚文盤:滋賀・K氏コレクション)

*2:盤のカベット(CHAO365号参照)に放射状の刻線をみます。これは正式な鎬文とは云えませんが、鎬文と呼んでいます。

(サンカンペーン・青磁鉄絵草花文盤:チェンマイ国立博物館)

サンカンペーン焼の種類と特徴ということで、それについて紹介してきましたが、装飾文様の残り3割は実に多様なものです。その多様さの事例として『青磁鉄絵魚草文盤』を紹介しておきます。

(サンカンペーン・青磁鉄絵魚草文盤:京都北嵯峨・敢木丁(カムラテン)コレクション)

見込み(用語:CHAO365号参照)には草文が描かれています。その見込み中央下に魚の頭部を見ることができ、草文は鱗にみたてることができます。器の内壁にあたる箇所をカベットと呼びますが、そこには回遊する三匹の魚文が描かれていますので、合わせて四魚文ということになります。過去サンカンペーン焼の盤は300点近く実見していますが、この手の盤は敢木丁(カムラテン)コレクションの盤が唯一のものです。奥行きの深さとして一つの事例しか紹介できませんでしたが、その装飾は多様性に富んでおり、それがサンカンペーン焼に魅了されるゆえんです。

魅力と云えば、北タイに装飾性に溢れた謎の大壺が存在します。その謎の大壺の産地が未だ確定していません。その理由は、それらの大壺の陶片が北タイのどの窯址からも出土・発見されていないからです。可能性としてナーン県ムアン郡のナーン窯とともにサンカンペーンが有力視されています。残念ながら、そのことについて語るには紙数がたりません。もし機会があれば紹介したいと思います。 

*1、打刷毛目文を説明するには紙数が足りません。別に機会があれば触れたいと思います。

    <了>                                          

 

 


倭国大乱(1):大阪府立弥生文化博物館

2019-06-18 07:02:40 | 古代と中世

魏志倭人伝には『倭國亂相攻伐歴年』と記し、倭国に乱が在ったことを示し、それも歴年としている。弥生文化博物館はこの倭国大乱を思わせる資料の展示も豊富である。

                       

右手には矛、左手に地上に置く楯を持つ。しかも朱塗りであり卑弥呼を守る衛視もこのような姿であったろう。

 

(兵庫県立考古博物館展示)

写真の楯は今後紹介予定の兵庫県立考古博物館展示の神戸・玉津田中遺跡(弥生中期)から出土したものである。中央に二重圏で小さな穴が開いているが、これは楯飾りをつけるためだとキャップションは記している。その飾りは当該弥生文化博物館に展示されている。

 

それは巴形銅器と呼ばれるものである。この巴形銅器が楯の装飾品であるとの説には異論もあるようだが、飛びものを弾く呪いには似合っているとも思われる。

 

(吉野ヶ里遺跡展示)

写真は吉野ヶ里遺跡に復元展示されている楯で鋸歯文を朱で表し、巴形銅器のような装飾を施している。今日にも通用しそうなデザインである。本当にこのようなカラフルの楯が存在したのかとの疑問があるが、鳥取の青谷上寺地遺跡資料館に展示されている楯は、そのものズバリであった。

 (鳥取・青谷上寺地遺跡資料館)

展示されている武器を紹介する。中国の銅剣や半島仕様の銅剣類と倭国の武器である。

 

以上の舶来系武器に対して倭国製の細形銅剣が博物館に展示されている。倭国大乱の時、武器は鉄製であったのか青銅製であったのか、魏志倭人伝は語っていない。狗奴国に邪馬台国は敗れたかにおもわれるが、狗奴国は鉄製の武器をそろえていたと想像される。

 

 

その鉄製武器も写真のように展示されていた。よく残存していたものと感心する。

 

<続く>