中断していた<北タイ陶磁特集>を再開する。特集5回目は、双魚文考である。字面ばかりで恐縮である。
サンカンペーン陶磁に魅了され二十数年が経過した。以下は、北タイ陶磁の装飾文様として多用されている魚文について、2010年頃に考察した内容である。今日読み返すと訂正する箇所も多々目に付くが、2010年当時の原文のまま紹介してみたい。
サンカンペーン窯に限らず、スコータイやシーサッチャナーライ各窯の鉢や盤類の装飾文様として、魚文が施されている。特にサンカンペーン陶磁では、単魚文や複数魚文もあるものの、圧倒的に鉄絵や印花の双魚文が多い。なぜ双魚文なのか、という命題である。
この双魚は太極配置であり、中国では魚の産卵は、多産であることから豊穣を示すもの、転じて家門繁栄を表すものとして、道教的土俗信仰と結びついていた・・・と考えていた。
(写真は、バンコク大学付属東南アジア陶磁館の比較展示で、龍泉窯の青磁貼花双魚文盤とサンカンペーン褐釉印花双魚文盤を並べて展示している)
そして、それを体現した龍泉窯青磁の貼花双魚文盤が、ターク近傍やオムコイ山中から、サンカンペーン陶磁と共に出土している。従ってサンカンペーン陶磁の双魚文は、中国の影響を受けた文様であろうと考えるのは、当然の帰結であったが、サンカンペーン陶磁には、西方のアラベスク文(幾何学文)に似た文様も多々あることから、魚文や双魚文にも西方の影響が少なからずあるのでは・・・との想いも抱いていた。
(写真は当該ブロガーのコレクションの一つであるが、明らかにアラベスクないしはパルメット文を表している)
そのアラベスク文に似た文様は、サンカンペーン窯のみならず、隣国・ミャンマーの錫鉛釉緑彩盤にも見られることから、アンダマン海に面したペグー朝治下のモッタマ(Mottama:Martabanともいう)からダウナタウンダン、タノントンチャイ両山脈を越えて、ランナー朝にもたらされたと思われる。しかし、その影響度合いについては、2010年9月現在の今に至っても、よく分からない。それは、ペルシャの何がしかがタイ北部から、サンカンペーン陶磁などと共に出土した、との報に接していないことによる。
以上のような状況で、サンカンペーン陶磁の文様として、なぜ双魚文なのかという命題について、中国の影響であろうが、これと云った結論を得ていなかった。しかし2010年の初めに故加藤卓男氏の著作『三彩の道』をたまたま手にした。それには“奈良三彩の源流を探る”との副題がついている。
この著作を読んでいると、まさに“井の中の蛙、大海を知らず”である。氏は漢の緑釉は漢代に、彼の地で創成されたものではなく、漢代以前に地中海沿岸、小アジアの西方パルティア朝時代に、シルクロードを経由して導入されたとある。窯業や陶磁技術は中国から伝播したとの記事が多い中、何か新鮮な響きを持っているように思えた。それは、古代ペルシャ緑釉→漢緑釉→唐三彩につながり、古代ペルシャ緑釉→ペルシャ三彩につながったが、ペルシャ三彩は唐三彩の影響も受けているとのことであった。
その後、時は経過し11世紀半ば中央アジアのセルジューク・トルコ族が南下し、アッバース朝にかわってペルシャの主導権を握り、西アジアを支配することになった。これがセルジューク朝(1038-1194)で、過去からのペルシャ陶器は大きな転機を迎え、黄金期と呼ばれるほど発展した・・・とある。
更には、東南アジアの緑彩陶磁についての記述もあった。氏の「三彩の道」P169に錫鉛釉緑彩盤が安南緑釉皿として紹介されているのは、ミャンマー錫鉛釉緑彩盤の誤りであるが、氏の説明によると・・・ペルシャ湾はもとよりアラビア海には、オスマンの商船が行きかい、故国の需要が強かったと思われる高火度の陶器をベトナム南部(これはミャンマーの誤りであるが)より運んだことであろう。16世紀の東南アジアは海上ルートによる東西交流が隆盛に向かった時期です。その頃のベトナム南部(ベトナムでないことは先述の通り)の陶器に西アジア特にペルシャの好みによる釉調や技法の影響がみられたことは興味深いものです。
最近、この付近の古窯址から、ペルシャ風の技法をつかった不思議な焼物が多量に発見されました。これは原料に酸化銅を使用した低火度鉛釉であり、この原形は12-13世紀、カスピ海南岸アモール、バボール、サリー等の古窯で生産された緑釉の技法です、重ねて考察すると、当時サラセン商人たちは商業貿易にきわめて熱心でした。彼らはペルシャ湾を経て、東南アジアに進出し、インド・マラバール海岸の胡椒を交易に使用し一攫千金を夢みつつ航行していました。
ペルシャ陶に似た作品が、東南アジアの各地で生まれたこと(各地とは何を指すのか不明)は、この技法が現地の陶工たちにとって大きな参考となった証しにほかなりません。したがってこれらの倣ペルシャの作品については、まさに「技術の伝播」の一端を示しているのであるといえましょう。・・・との記述であった。
文中『安南緑釉皿』は『ミャンマー錫鉛釉緑彩盤』の誤りであるが、かねてよりミャンマーの錫鉛釉緑彩盤の釉調やサンカンペーン窯の幾何学文も含めた、装飾文様に西方の影響を考えていたが、同様な見方であり、心強く感じた次第である。
そのペルシャ中期陶器の作りはじめられた、11世紀後期から12世紀前期は中国では北宋末・南宋初めの時代であるが、このころ中国陶磁の海外への輸出は増加をはじめ、北宋の越州窯青磁や景徳鎮白磁・青白磁は大量に海外へ運ばれた。それは西アジアやエジプトにまで及んでいる。これを輸入した土地ではコピーつくりがはじまった。事実、エジプトにおいては12-13世紀の中国青磁の酒会壷や鎬文のついた鉢をそのまま模した青釉陶器がつくられている。
一方、彼の地の白釉藍・黒彩陶器は、整えられた錫白釉の素地の上に淡い藍や緑黒で文様を描き、上を透明釉でおおったものである。鉢・皿・瓶・壷の類が多い。焼成火度が1200度前後にも及んでいるため半磁器(ストーンウェア)のようにみえるものもある。その文様には唐草文・パルメット文・花文・文字文・幾何学文などのほかに、魚藻文もあり、中国宋代陶磁の文様との類似を感じさせる。13世紀後半から14世紀のイル汗国時代には放線文や多弁蓮花文が現れ、これらは中国起源の文様である。
<続く>