<続き>
〇第4章・シャム 日本人の見た南方の夢
室町末期より大内氏や大友氏、更には堺の交易商人は南蛮交易を行い莫大な利益を享受していた。その交易相手国の一つにシャム(暹羅国)がある。更に云えば、すでに15世紀から琉球国はシャムとの間に交易船を派遣していた。
当時のアユタヤーは国際交易都市であり、16世紀末に乱世が治まるにつれ、活躍の場を新天地に求めた浪人や商人が南方に旅たち、現地で日本人町を形成した。江戸時代に鎖国が始まると、両者の関係は断絶したようにみえるが、シャムの船は「唐船」として長崎に入港し、アユタヤーに集められた産品を日本に運んでいた。その交易ではシャムに渡った日本人が関与していたのである。
(日本人町址付近のチャオプラヤー川 出典:グーグルアース)
所謂朱印船交易の朱印状が展示されている。家康が発布した平戸・松浦家宛ての朱印状は、昨年松浦資料博物館で目にしたが、残念ながら写真を写していないので掲示できない。
その松浦家にならって亀井家も朱印船交易を行っていたようで、その書状が展示されているのには驚いた。山陰の小藩が遠路シャムまで用船していたことに驚く。
(出典:九博HPより)
摂津・平野郷の豪商・末吉氏が平野郷の杭全神社に奉納した衝立。シャムに派遣した朱印船が無事に帰国した様子が描かれていると云う。
亀井玆矩書状が展示されている。タイ南部パッタニー国王あて書状である。アユタヤのみならずタイ南部とも交易を行っていたことが興味深い。当時の亀井玆矩は因幡・鹿野城主で嫡子・政矩が石見・津和野初代藩主に転封となった。
噺は反れる。何故か津和野藩二代玆政の長男・玆朝の書状が我が家にある。玆朝は家督を相続する前に逝去し、藩主にはなれなかった。下の写真がそれで、花押
が描かれた感謝状である。
噺が横道にはずれ恐縮である。
(松浦史料博物館にて撮影)
西洋の帆船戦艦に倣って大砲を搭載している。長政がこのような戦艦に搭乗していたのかどーか?
江戸時代に鎖国が始まると、シャムの船は「唐船」として長崎に入港し、アユタヤーに集められた産品を日本に運んでいた。平戸・松浦家は、その交易に大きく関わっていた。
メナムノイ産の四耳壺で、交易の際のコンテナーとして用いられた。焼酎をいれたのか?それとも胡椒か?堺の環濠都市から出土したものである。それにしても江戸時代の鎖国は面白くない。鎖国がなければ日本は違った形になっていたであろう。
<続く>