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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(8)

2019-03-08 08:18:56 | 北タイ陶磁

<続き>

4)各民族の葬送

〇タイ族(人)

中世タイ族(小タイ族またはシャム族:ไทยสยาม)の葬送は先述の通りで、あくまでも推測の域をでない。そこで現代タイ人(小タイ族またはシャム族:ไทยสยาม)の葬送である。今から20数年前の1996年、チェンマイの南サンパトーンの知人に誘われて、その親族の葬儀に参列した。周囲には屋台も出現しまさに祭り気分である。遺体は浄められて木棺に納められ西枕に置かれている。通夜の翌日それが台車に載せられ出棺となる。大勢の人々に引かれて村の火葬場まで野辺送りである。棺はその火葬場で荼毘にふされる。目にしたのはそこまでである。一般的にタイ人は墓を持たず、遺骨は川や池に散骨されると聞いた。つまり現代のタイ人は火葬である。そこには土葬の土の字も見当たらない。それは上座部仏教であれば当然の帰結かと思われる。

タイ人(小タイ族またはシャム族:ไทยสยาม)が11世紀ごろに現在のタイへ下って来た当時は、ピーを信仰していたが、上座部仏教(テーラワダ仏教・南伝仏教)が流布するのは13世紀末のスコータイ・ラームカムヘーン王やチェンマイ・メンライ王の時代である。

中世のランナーやスコータイ王朝下の葬送の様子は不詳である。タイ人はベトナム北部や雲南から西南下した民族である。SNS上で検索すると雲南省徳宏州梁河県孟養鎮のタイ・ルー族(ไทลื้อ)の葬送についての論文がヒットした。『徳宏タイ族社会の葬送儀礼と送霊儀礼における死生観:総合研究大学院大学 伊藤悟』なる論文である。

これを参考に引用するのは、先に断ったように、タイ(シャムまたはサイアム)族の中世・葬送儀礼が不明であること、少なくとも現代のタイ人の葬送よりも、孟養鎮のタイ・ルー族が古様を示しているであろうと考えたことによる。

以下その概要である。家族によって遺体は浄められ、死装束を着せられた遺体は、綿の手織り布が敷かれた木棺に納棺される。そこに花や門を模った小さな型紙が納められる。そして銀の欠片や粒を口に含ませられる。出棺の時、木棺は竹の輿で担がれる。夫婦のどちらかがすでに亡くなっていれば、その隣に埋葬するが、そうでなければ生卵を持っていき、後方に向かって割れた処に埋葬される。輿で運ばれた棺が墓地に着くと、棺の蓋が開けられ、銀の粒を取り出し、死者の口に水や酒を含ませ、棺の蓋を閉めて埋葬される。つまり土葬である。

しかし、村外で亡くなった人、病死の場合は山の火葬場で火葬される。村では男たちが遺灰を納めるための小さな棺桶を作る。それとは別に、正常死と同様な大きな棺が用意され、そこに死装束や布を納める。遺灰をいれた小さな棺桶は直接墓場に運ばれ、埋葬の際に家から男たちが担いできた大きな棺に、遺灰入れごと納められ埋葬される。

以上であるが、結論としては正常死の場合は土葬である。異(非)常死の場合は火葬で、何れも村はずれの墓場に埋葬されるという。この徳宏のタイ・ルー族は上座部仏教徒である。現代のタイ人も上座部仏教徒であるが、先述の如く火葬で骨灰は散骨で墓を持たない。また埋葬地は、1500mを越える峰の頂ではなく、孟養鎮の郊外の低い山並みであることが決定的に異なる

次のグーグルアースを見て頂きたい。伊藤悟氏の当該論文に在る孟養鎮である。タイ族の特徴が現れているので説明しておく。

雲南西南部というよりミャンマー国境に近い山奥であるが、タイ族は山の頂や中腹部には集落を構成せず、河谷やグーグルアースに示したように盆地に集落を営む。それは先住民族を追い出してのことである。そのタイ族が、集落を離れた山の頂や尾根に墳墓をつくり、そこに遺体を担ぎ上げる・・・このような発想には無理がありそうだ。

尚、孟養鎮の上空からみた建物配置は、漢族の影響を受け、口字形の配置となっている。これは母屋、台所、穀倉、畜舎の4棟が、『四合院』のように配置されており、畜舎棟は高床式で床下が家畜の飼育場になっており、床上に稲藁などを置くという。

長々と記載したが、上座部仏教が流布する13世紀末まで、つまりタイ人(小タイ族またはシャム族)が南下する11世紀ころから13世紀末までの原風景は、上述のタイ・ルー族の葬送と似ていたのではないかと思われる。であるとすれば、木棺による土葬が中心で異(非)常死の場合の火葬も一部に存在していたであろうことになる。しかし火葬の場合、骨壺が存在したであろうかとの疑問(つまりタイ・ルー族の場合は遺灰を入れる小さな棺桶である)と共に、埋葬地が高地の峰でもない。これは関千里氏の推論と異なる。つまりタノン・トンチャイ山脈とオムコイ山中の墳墓の埋葬者を、タイ人であると推測するには多少無理があるように思える。

決定的に異なるのは、タイ人は山岳民ではないことだ。沢の末端である扇状地や盆地で、水稲を営む民族である。1000mを越える山の峰に遺体を担ぎ上げる習慣を持っていたとは想像し難い・・・残念ながら中世・タイ族の葬送に関する核心的な情報は得られなかった。

<続く>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(7)

2019-03-07 07:08:04 | 北タイ陶磁

<続き>

更に詳しい説明を聞きたかったが、なにせ時間がない、仮に時間の余裕があったとしても、記録のない記憶だけであり、チェンマイに戻ることにした。その帰り姿をみて、来年の雨季に来いと言う。なぜ雨季かと尋ねると、雨季には農作業がない。従って人々は発掘を始めるとの説明である。しかし雨季は道が赤土でスリップし易く、車はだめで徒歩になり、野宿を含めて3日間の行程だと云う。 ・・・今回のように発掘現場の痕跡ではなく、実際の発掘現場は見たいが、その行程は大変な困難が予測され、研究者でもない者にとっては遠慮したいとの想いが残った。

今回の事例のみで即断はできないが、過去のターク・メーソト周辺の墳墓からの出土品と、今回のオムコイ地区バン・メーテンの墳墓の出土品と、明らかに違いがある。先の墳墓から出土する内容は、埋葬主が比較的豊かであったろうと思われることである。一方バン・メーテンでは、装飾品の出土を見ないとの話しである。埋葬地を含めて、これらのことから想定されるのは、ターク・メーソト周辺の埋葬主は交易で栄え、豊かであったろうことが、バン・メーテンは山中で、ひっそりとした生活であったろうと思われる。その一方でターク・メーソトの埋葬者とバン・メーテンの埋葬者の民族が異なることも考えられる

また、バン・メーテンに暮らした中世の人々、彼らがシーサッチャナーライやサンカンペーン陶磁を入手するほどの原資は何であったろうか。森林由来の産物で、平地に暮らす人々に魅力があるのは、何であろうか。よく喧伝されるのは蘇木などの染料等々が、語られるのが一般的である。そのほかにも何かありはしないか・・・と、山勘であるが考える。

冗長であったが、当該ブロガーの経験を記事にしてみた。墳墓の埋葬者が誰なのか、予想する材料は何も得られなかった。関千里氏は推論ではあるが、被葬者はタイ人であろうと、ほぼ結論付けておられる。果たしてどうか? 次章で各民族の葬送について分かった範囲で紹介したい。

<続く>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(6)

2019-03-06 07:32:02 | 北タイ陶磁

<続き>

するとここの発掘場所は何なのか、当然埋葬地なのだが、ここで大いなる疑問が沸々と浮かんできた。現在の発掘現場はこの先15kmのモン(Hmong)族集落(Ban Meo Toi)から、まだ20km以上先で車も入らない所だという。地図でみるとそこはミャンマーとの国境の山中である。なぜこんな人跡未踏のような山中に埋葬地があるのか? (ここまで御覧頂いて、各位には一つの疑問が浮かばれているはず。モン族集落(バン・クリアン)の手前1-2kmの墓地跡の発掘現場はモン(Hmong)族のものであろうとの想定であるが、そのモン(Hmong)族は北タイに南下定住するのは、ここ100年前のことで、発掘現場の墓地は彼らのものでは無い。)

タイ西部の山岳地帯、例えばターク市街地の西側から、タイ・ビルマ国境のメーソトにかけて、かつて大量の発掘陶磁が出現した。これは曰く、タイとビルマの中世交易路に沿ったもので、それらの周辺に住まう人々の集落であったろうと、思われる場所に墳墓が設けられた・・・との説が唱えられ、それに少なからず同意していたが、今回の発掘跡地は交易ルートでも何でもなく、1000mはゆうに越える高地である。先述の如くここから約35km先のミャンマー国境が現在の発掘地で、とても中世の交易路などではない。考えられるのは、雲南や北ベトナムから移動してきたタイ族の墳墓、と想定するには無理がありそうだ。ここは山の民、それがどのような民族なのか、ラワ族等のあてはあるにしても、それを特定して記述するまで絞り込めない・・・大きな謎、宿題として残った。以上の事柄を確認しながら帰途についた。麓の彼の自宅に戻ったのは午後2時20分になっていた。車のメーターで距離を正確に測定すると12km入った地点であった。

元締めの居宅へ戻り、最近の発掘の様子を写真で説明してもらった。場所の発見方法は先述の通りで、目印といえば生活痕である。つまり陶磁の破片を時間をかけて探しだし、発掘する方法である。

写真を見ると地表の穴の径は1.5m程度であるが、掘り進むにつれ内径は大きくなっている。その深さ1-1.5m程で陶磁に突き当たると云う。それらの陶磁とともに、他に何が出土したか質問すると、鉄銹でボロボロになった断片とか、骨と思われるものとのことであった。

貴石・宝石の装飾品の類などはどうか、と重ねて質問すると、それはないと言う。結局、正確な記録などはなにもなく、その先に話がすすまないことは、過去の調査報告と同様である。記憶をたどりながら説明を受けるが、前記の通り記憶のみで信憑性については、判断できない。写真は先に説明した発掘現場・7箇所の、掘削当時の写真とのことである。それによると7箇所で写真の発掘品を回収したという。

それは比較的大型の壷が3点、蓋付小壷1点にミニュチュアのような壷1点、大径の盤が4点、中径盤が3点、碗が2点に小皿が1点で、合計14点であったとのこと。当然破損した陶磁も多かったが、その詳細は覚えていないとのことである。これでは考古学上の研究は何も出来ない。現実がこれと云えばこれである。

これらの壷と盤は、写真から判別は難しい点があるが、サンカンペーンの壷と盤が確認でき、翠色に発色している盤はシーサッチャナーライで、スコータイは確認できないがどうであろうか。タノン・トンチャイ山脈の北端・オムコイでの出土陶磁は、スコータイ地域の焼物比率が低下し、ランナー陶磁の比率が増加するのがセオリーであるが、今回の写真とその説明は、セオリーに準じている。

 

<続く>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(5)

2019-03-05 07:28:34 | 北タイ陶磁

<続き>

今回発掘場所に案内してくれるM氏の自宅を訪れた。そこで、発掘品が保管してある棚を見ると、写真の口縁が割れたサンカンペーンの壷と、写真のビルマ・錫鉛釉緑彩の小形盤、それにサンカンペーンの無文盤(所謂犬の餌鉢)が二つで、これは近隣で発掘されたものである。

そこでM氏に種々質問した。先ず第一は発掘現場を見たい、それが無理であるなら発掘現場の写真が見たいとの質問である。現在の発掘現場は山道を50km行ったミャンマーとの国境に近いところにあると云う。とても本日中にチェンマイには戻れませんよと・・・。では近くにはないかと重ねて尋ねると、15km先に旧発掘現場があり、3-4年前に発掘したところだという。徒歩かとの質問に対し、そこへは山道を四駆で行けるという。今回、当地訪問の目的は発掘現場を現認することにある。

行かない手はないが、所用時間が気になる。まあ15kmだから、いくら山道とはいえ30分程度であろうと、たかをくくったのが、大間違いであった。早速四駆で、学校の先を右折して山中に分け入った。5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる。

これはモン(Hmong)族(タイ人は蔑称としてメオ族という、古代から中世にかけタイ中部や北部のハリプンチャイ王国を建国したモン(MON)族とは異なる)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。50分が経過して目的地に到着した。帰りのこともあるので、短時間で周囲の様子を確認した。

現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなり、土質は赤土である。そこで確認できたのは、7つの掘削址が直径1m~1.5mほどで、窪地になっている。

さらにその場所を特定する何かがあるとの考えより、注視してみるが、樹木を見る以外、例えば目印の石なり岩等を見ない。また小高く盛り上っている訳でもなく、かつ環濠らしきものもない。目印なしで何故そこが墳墓跡とわかるのかと、M氏に質問する。彼によるとそこは、陶磁器の破片が落ちていた場所で、その散乱具合で目星を着け、掘削するとの回答であった。

この場所はバン・クリアンと呼ぶモン族集落(บ้านเกรียง:Ban Khuriang)の手前1-2kmのところで、村人が足しげく移動する場所であり、かつ牛を放し飼い(放牧ではない、そのような人工の牧草地は存在せず)にしている場所で、村人は何度も訪れており、それらの村人が破片を見つけたと言う。

<続く>

 


聖なる峰の被葬者は誰なのか?(4)

2019-03-04 08:04:10 | 北タイ陶磁

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3)オムコイ山中発掘現場

目指すのはチェンマイ県深南部のオムコイ郡バン・メーテン(บ้านแม่ตื่น:Ban Mea Ten)村の発掘現場であるが、正式な地名はモン(Hmong)族の居住する集落名のバン・クリアン(บ้านเกรียง:Ban Khuriang)にすべきであろう。しかしここでは、周辺の発掘品の集積地である、バン・メーテンと以降表現する。

チェンマイの友人と四駆(オフロードの山中に分け入るので四駆は必須)で出発したのは、2010年11月15日の午前8時であった。HOTの町を右折してメー・チェム川(Nam Mae Chaem)に沿って走り、2時間を経過した時点で、国道108号は、標高1000mを超えると思われる山間に入ってきた。暫く走るとバン・ケウロム(บานกึวลม:Ban Kiew Lom)の集落がある、そこにはオムコイ(อมก๋อย:OMUKOI)との標識がでているのでそこを左折して国道1099号を進んだ。ところがそこからオムコイまでの距離が長い。1時間以上走って到着したのだが、国道1099号が走るのは、山の尾根(標高1100m前後)伝いで曲がりくねっている。

オムコイの町は標高800mを越へ、町というのが憚れるほどで、集落に毛がはえたもののようであるが、チェンマイ県深南部の中心であり、一応ながら総合病院もある。

(写真の交差点を左折)

そこを左折して、なおも国道1099号である。またまた難所で、再び山の尾根(標高1100m前後)伝いの道である。狭いながらも片側1車線の道が続く。

オムコイから40分を経過した時点で、車は尾根を下り始め谷間に入ってきた。間もなく過去大量の陶磁が発掘された、ドイ・ムーサー(ดอยนมูเซอ)の入口を通過し、なおも進み結局チェンマイを出発して4時間で、谷間が開けた平地に出てきた、並行してメー・テン川(Nam Mae Ten:一部の地図ではMae TunとかMae Tuenの表記があるが、ここは道路標識の表記に合わせる)が流れている。ほぼ通ってきた国道1099号も尽きようとしている。終着のバン・メーテン(บ้านแม่ตื่น:Ban Mae Ten)の集落に着いた。集落は河谷が開けたところで、その標高は約420mである。

最寄りの食堂で昼食にしたが、その食堂を見回すと、写真の発掘された大壷が、でんと構えているのが目にはいってきた。ほかに二つのビルマの大壷に花が活けてあり、なんだかこれから、期待がもてそうである。

バン・メーテンは長閑であった。食事中マイクで大きな声が聞こえる、聞くとすぐ近くに学校(Mea Ten Witthaya School)があり、午前中の学習終了時の何かを喋っているらしい。それ以外は静かなもので、車はほとんど通らない。メー・テン川の対岸を見ると1900m級の峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。対岸に稲穂の田園と民家が散在し、その背後は峰々、手前と対岸の川岸にある竹林の光景は、日本の田舎の田園風景そのもので、時の経過とは無縁の景色であった。

<続く>