世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伽耶展(17)

2023-10-22 08:13:57 | 日本文化の源流

<続き>

第二部 渡来人

第7章 渡来人と生きる

またまた中断していたが戻る。列島において3-4世紀までの倭人の国際交流拠点は、北部九州にあった。博多湾に面した福岡市の西新町遺跡からは、3世紀から4世紀に地元の北部だけではなく近畿や山陰などから集まった人々が、朝鮮半島から渡来した人々と混在していた痕跡(先述の各地の土器が共伴していた)が確認されている。しかも当遺跡からは鉄素材として使われる板状鉄斧が出土したことから、ここに集まった倭人は渡来人から鉄などを入手していたと考えられる。

このように4世紀以前、日本列島と朝鮮半島間の人の移動は、主に北部九州と半島南部との間で起こっていた。倭人にとって農耕や武器の素材として鉄は不可欠なものであったから、それを供給する朝鮮半島南部との交流は、倭人にとって自らの社会の命運を左右するものであった。

したがって5世紀初頭前後に増加する渡来人に、伽耶南部地域の人々が多く含まれていたことは、5世紀の倭が伽耶の鉄に依存していたことの表れであり、渡来人と共に暮らしていた集落が多々存在していたと思われる。

船の線刻埴輪、このような舟を用いて渡来したと思われる。ようすから準構造船と思われ、対馬海峡を横断して九州に渡来したものであろう。

以下、西新町遺跡から出土した朝鮮半島と日本各地の土器である。

今回はここまでとする。

<続く>


伽耶展(16)

2023-10-10 08:43:52 | 日本文化の源流

第二部 渡来人

第6章 稲づくりと国づくり

中断していた『伽耶展』の展示物紹介に戻る。第6章は『稲づくりと国づくり』とのテーマで、倭と伽耶の前代にスポットをあてた展示であった。

木製踏鋤は朝鮮半島出土の青銅製品に描かれていた(キャップションの赤印)。それと同様な品が佐賀県の土生遺跡から出土した。

以上の写真が木製踏鋤を構成するパーツである。

朝鮮半島で使われていた無文土器が下の弥生土器と共に土生いせきから出土

漢倭奴国王印

右口縁下(クリップ部分)に竟(鏡)の線刻文字

鏡はシャーマンが用い、権力者の威信財でもあった

朝鮮半島から出土する石製の硯が、北九州の弥生遺跡からも出土する。文字が使われていた証と思われる。

大阪府亀井遺跡出土天秤権他

須玖岡本遺跡出土天秤権

交易には重さを測る量りが必要であった。その基準重量を決める重りを天秤権と呼んだ。重量を測り上掲の硯と筆を用いて記録していたものと思われる。

<次回に続く>


伽耶展(15)

2023-09-25 10:05:38 | 日本文化の源流

<続き>

第二部 渡来人

渡来人とは何か

第一部の出典展示物の紹介を終え、今回から第二部である。先ず『渡来人とは何か』とのテーマで、主として奈良・新沢千塚126号墳出土遺物を中心に紹介する。

この渡来人埴輪については、過去記事にしたが、今後関連記事をUpDateしたいと考えている。

これは、熊本県氷川町物見櫓古墳出土の金製垂飾付耳飾りである。鎖を有しており、大伽耶の特徴を示している。

以下、奈良・新沢千塚126号墳出土遺物である。小型の長方形墳で被葬者は中国東北部あるいは朝鮮半島から渡来した女性であろうとされている。日本書紀は5世紀に女性の貴人が渡来したとの記載はないが、交流は活発であったので、記録に残らない貴人の来朝があったと考えられる。

金製垂飾付耳飾り:大伽耶の特徴を示している

166・銀製釧 167・金製指輪 168・金製螺旋状指輪 169・銀製指輪

170・金製歩揺 171・硬玉勾玉 172・金製空玉 173・銀製空玉

174・ガラス小玉 175・金箔入りガラス丸玉

以下、今回の展示はなかったが、新沢千塚126号墳出土品である。

銅製火熨斗(アイロン)

金製方形板

ガラス碗

ガラス皿

新沢千塚126号墳出土のガラス碗は、東京理科大の蛍光X線分析では、ササン朝ペルシャとされている。これと似た碗が先に紹介した陜川玉田(きょうせんぎょくでん)M1号墳出土のガラス碗とほぼ同一であり、新羅・金鈴塚出土のガラス容器に似ている。やはりペルシャ→新羅→伽耶→倭のルートで将来されたものと思われる。

ガラス皿は、ラスピラズリを思わせる濃紺の容器で、まさに貴人のもちものであった。

<続く>

 


伽耶展(14)

2023-09-21 08:11:08 | 日本文化の源流

<続き>

第一部 伽耶の興亡

第5章 伽耶のたそがれ 6世紀前半ー中頃

6世紀に入ると、百済や新羅が、伽耶の地の統合をもくろむようになる。伽耶はたくみな外交により、生き残りをはかった。それは、ある時までは功を奏したが、徐々に苦境にたたされる。ついに562年に大伽耶が新羅に降伏し、伽耶は東アジアの舞台から姿を消すことになった。その時期の遺品がてんじされていた。

ここまで第一部 伽耶の興亡 とのテーマで展示品を紹介してきた。古墳時代の倭に伽耶諸国は大きな影響を与えてきたが、必ずしも一方通行ではなく、倭の品々が伽耶から出土することから双通行であったことがわかる。その中で謎めいたことも存在する。次回、それを紹介したいと考えている。

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>


伽耶展(13)

2023-09-18 08:46:35 | 日本文化の源流

<続き>

第4章・『伽耶王と国際情勢』とのテーマの展示品の2回目である。

大伽耶の地で葬られた倭人か・・・山清生草9号墳

この地は、大伽耶から朝鮮半島南岸に至る南江ルートの要衝のひとつである。5世紀後半から大伽耶の滅亡のころに造営された古墳群である。その9号墳から大伽耶系の土器と共に、倭でつくられた須恵器12点と鏡が副葬されていた。さらに赤色顔料を詰めた小壺も副葬されていた。生草古墳群の中で倭系の副葬品が出土したのは、9号墳が唯一である。

被葬者が大伽耶へおもむいた倭人だったのか、それとも倭人と交流を重ねた現地のひとだったのか、黙して語っていない。それでも、須恵器が副葬されていること、大伽耶圏では中小の墓に鏡を副葬する習慣はないこと、倭の古墳に副葬される朱入り壺も、大伽耶ではその習慣がないことから、9号墳の被葬者は倭の葬送儀礼によって葬られたことになる。

朱入り小壺 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

須恵器 固城松鶴洞1Aー1号石槨 小伽耶 5世紀後半

須恵器は固城松鶴洞古墳からも出土している

上掲2点の須恵器は 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

珠文鏡 山清生草9号墳 大伽耶 6世紀前半

眉庇付冑 金海杜谷43号墳 金官伽耶 5世紀前半

大伽耶と新羅の境界

陜川玉田古墳群は洛東江の西に位置する。大伽耶を構成した勢力のひとつ多羅に比定されている。ここで独特な金製耳飾りが出土した。この耳飾りは大伽耶の意匠と新羅の意匠の双方が見られる。

以上で2回に渡って第4章の展示品を紹介した。次回から第5章『伽耶のたそがれ』のテーマで展示品を紹介する。

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>