<続き>
第二部 渡来人
第7章 渡来人と生きる
またまた中断していたが戻る。列島において3-4世紀までの倭人の国際交流拠点は、北部九州にあった。博多湾に面した福岡市の西新町遺跡からは、3世紀から4世紀に地元の北部だけではなく近畿や山陰などから集まった人々が、朝鮮半島から渡来した人々と混在していた痕跡(先述の各地の土器が共伴していた)が確認されている。しかも当遺跡からは鉄素材として使われる板状鉄斧が出土したことから、ここに集まった倭人は渡来人から鉄などを入手していたと考えられる。
このように4世紀以前、日本列島と朝鮮半島間の人の移動は、主に北部九州と半島南部との間で起こっていた。倭人にとって農耕や武器の素材として鉄は不可欠なものであったから、それを供給する朝鮮半島南部との交流は、倭人にとって自らの社会の命運を左右するものであった。
したがって5世紀初頭前後に増加する渡来人に、伽耶南部地域の人々が多く含まれていたことは、5世紀の倭が伽耶の鉄に依存していたことの表れであり、渡来人と共に暮らしていた集落が多々存在していたと思われる。
船の線刻埴輪、このような舟を用いて渡来したと思われる。ようすから準構造船と思われ、対馬海峡を横断して九州に渡来したものであろう。
以下、西新町遺跡から出土した朝鮮半島と日本各地の土器である。
今回はここまでとする。
<続く>