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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ名刹巡礼#4:ワット・スワンドック

2016-06-23 07:25:17 | 北タイの寺院
<Wat Suan Dok:ワット・スワンドック>

場所は、チェンマイ大学医学部および、その附属病院の向かい側である。1383年6代・クーナー王(在位:1355-1385年)によって、宮殿の花園に建てられたと云われている。本堂には、1504年11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)へもたらされた高かさ4.7mの青銅で、降魔印を結ぶ仏坐像Phra Chao Kao Tueが安置されており、これはタイ全土で1、2を争う大きさだという。
創建時のものとされるスリランカ様式の仏塔には、スコータイから招かれた高僧スマナーによってもたらされた仏舎利が祀られている。
更には、王家の遺灰を納めた墓廟群と、1932年高僧クルーバーシーウィチャイによって修復を受けた。北タイ最大と云われる礼拝堂等々が増築された。

現地に立つと、墓廟群は白く多くの尖塔をもつ廟で、数も多く圧巻というより、別世界に来たとの印象である。また確かに礼拝堂は大きく雄大さを感じるが、寺院全体の印象は荘厳さに欠けるような気がする。








北タイ名刹巡礼#3:ワット・チェンマン

2016-06-17 09:54:08 | 北タイの寺院
<Wat Chiang Man:ワット・チェンマン>

旧市街北東部に位置している。1297年、ランナー朝初代・メンライ王(在位1261-1311年)がチェンマイ建都の際に建立した寺院で、かつては宮殿でもあった。
正面の礼拝堂は、太いチーク材の柱で、典型的な北タイの建築スタイルである。ここには、1996年4月のチェンマイ建都700周年を記念して、金箔のステンシルでメンライ王の生涯が壁画として描かれている。
北側の小さな礼拝堂には、18世紀にスリランカからもたらされた、雨乞いの力が宿っていると信じられている仏立像の浮彫板Phra Sila Buddha(プラ・シラ・ブッダ)と、ハリプンチャイの女王・チャーマティーウィーが所有していたと伝わる水晶製で降魔印を結ぶPhra Sae Tang Khamani(プラ・セタンカマニ)が祀られているが、前仏があり写真のように、それを正面から見ることはできない。
礼拝堂の裏にある仏塔は、基部を15頭の象に囲まれた、方形基壇に小さな釣鐘型身舎が載っている。これはChedi Chang Lomと呼び、15世紀に建立され、チェンマイでは古い塔で19世紀に修復を受けた、スコータイ様式の仏塔と云われている。この仏塔は写真のように歴史を感じる古色に彩られ、身舎の金箔とのコントラストが素晴らしく、チェンマイでも1、2を争うものと思われる。




























































北タイ名刹巡礼#2:ワット・チェディールアン

2016-06-15 06:43:57 | 北タイの寺院
<Wat Chedi LuaNG:ワット・チェディールアン>

旧市街の中央部に位置し、ワット・プラシンと並んで格式の高い寺院とされている。14世紀末7代・セーンムアンマー王(在位:1385-1401年)が父のクーナー王を祀るため仏塔の建立を始めたのが創建である。その仏塔は15世紀半ばティローカラート王(在位:1441-1487年)の時代にラテライトで強化して完成した。
高さは84mでランナーでは最大で、ナーガ(龍)の手摺りのついた階段のある、象に囲まれた基壇に載るもので、1468年東の壁龕にPhra Kaeo Horakot(プラケオホーラコット)というエメラルド仏が納められていたが、1545年の地震で上部30mが崩壊し、仏像はルアンプラバーンから招聘されたセータティラート王(1546-1547年)がルアンプラバーンに帰国する際、一緒に持ちだされたと云われている。

1990年代、日本とユネスコの援助で修復を受け、創建開始600年を記念して、かつてエメラルド仏があった壁龕に、黒翡翠のPhra Yok仏が奉納された。
礼拝堂は新しく、1928年に建立されたものであるが、14世紀に造像された18臂の仏立像Phra Chao Attarot仏(プラチャオアタロット)が祀られている。更には涅槃仏像が祀られた堂があるが、この像はコンクリート製で周囲と比較し浮いているように見える。
またこの寺院は、チェンマイの街の柱(Sao Inthakin:インドラの柱)が置かれている。これは十字型モンドップに納められた高さ50cm程の石の柱で、本来この寺院の北にあるWat Sadeu Muangに置かれていたものが、19世紀のカウィラ王によるチェンマイの再建時、ここに移されたものである。




北タイ名刹巡礼#1:ワット・プラシン チェンマイ

2016-06-13 07:03:49 | 北タイの寺院
<Wat Phurashing:ワット・プラシン>

旧市街西部にランナー朝5代・パーユー王(在位:1336-1355年)が父王・カムフーを祀るため仏塔(Chedi・チェディー)を建立したことに始まるとされ、チェンマイを代表する寺院として多くのガイドブックに紹介されている。

ここワット・プラシンは当初ワット・リーチェンプラと称していたが、1467年9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)の時、スリランカからプラシン仏(獅子仏)が寺院に祀られ、ワット・プラシンと改称された。
写真では分かりにくいが、パーユー王が建立した仏塔は拡張され、象に囲まれた基壇に3層の円形基台、釣鐘状の身舎が載るものとなった。1925年その基壇から王家の遺灰を納めていたと考えられる金・銀・青銅の壺が発見されたという。

Viharn Laikham(ライカム礼拝堂)は、19世紀に大規模な改修を受けたが、14世紀半ばの建立で木造であり、東向きの正面扉は、金漆の装飾があり、3段2層構造の屋根は、ランナー様式の代表例である。ここにはプラシン仏が祀られているが、1922年に頭部が盗難にあい、そのレプリカである。ここの内壁には有名な壁画がある。それは本生話(ジャータカ)で、19世紀の修復時に復興ランナー朝のタンマランカー王(在位:1816-1822年)の命により描かれたと云われている。この壁画は、古いものの残存が少ないタイにあっては、200年前の風俗が描かれ貴重である。

正面に建つViharn Luang(ルアン礼拝堂)は14世紀に建立されたが、1925年高僧Khru Ba Srivichai(クルーバシーウィチャイ)の大修復の時に再建されたもので、80年程である。ここには1805年、西双版納から来た僧が、カーウィラ王(在位:1782-1816年)を摸した仏像として贈った青銅製(金箔貼り)の仏坐像Phra Chao Thong Thip(プラチャオトンティプ)が祀られている。
Ho Trai(経蔵)は1447年の建立で、1867年と1920年修復され、基壇に木造の堂が建つ。現プミポン国王によると、北タイで最も美しいフォルムをしているとの評価である。
寺院の奥まったところに、涅槃仏を祀る細長い堂がある。そこの涅槃仏はコンクリート製で金色のペンキかと思われる塗料で塗ってある。こんなもの無い方がましだと思うが如何であろうか。
このワット・プラシンには、チェンマイへ来る都度訪れている。木造のライカム礼拝堂の佇まいが良く、堂内の壁画には当時の風俗が細かく描きこまれ、見ていると何か楽しくなる。ランナー王家とのつながりをもつ格式の高い寺院である。




                              <続く>







続々 チェンマイのワット・ドイカム

2014-10-20 10:12:19 | 北タイの寺院

ラーチャプルック花博公園前を右折して、暫く道なりに進むと写真のワット・ドイカムの案内板が見える。左折すれば自動車で丘上の境内まで進むことができ、右折すれば徒歩にて階段を上ることになる。

その案内板の奥に、プーセ・ヤーセの祠がある。何時ごろ建立されたのか、タイ字が読めないので、ここに記載できないが、近年の建立と思われる。

このドイカムでプーセ・ヤーセは信仰されており、夫婦の人喰い鬼(ヤック)であるが、これもラワ族であるといわれている。大昔、プーセ・ヤーセは人肉を食べる鬼として、ラワ族に恐れられていた。その頃、この地に仏陀が訪れ、人々に仏法を伝授していたが、プーセ・ヤーセは全く耳をかそうとしなかった。そこで、仏陀が目の前で奇跡を起こして見せると、恐れおののいたプーセ・ヤーセは改心して、人喰いを止めた。
しかし、人肉の代わりに獣の肉が食べたいと言い出した。人々は、毎年5月か6月頃に水牛を一頭生贄にする儀式をし、プーセ・ヤーセはその礼として人々の守り神となった・・・という、伝承が伝えられている。
行って見たのは、正午ころであったが、多くの人々が参拝に訪れ、花を手向けて何か祈っている。狭い祠では10数名の人々で溢れ、祠の外にも待機している。

中華圏では鬼は忌み嫌われる存在である。しかしここでは、怖い存在ではあるが、人々の参拝対象となっている。日本でも鬼が島の鬼退治や秋田の『なまはげ』等、怖い存在ではあるが、なんとなく親しみさえ感じる。ここにもラワ族と日本の深層での繋がりがあるのであろうか?。