goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ名刹巡礼#9:ワット・ククット

2016-07-12 07:18:20 | 北タイの寺院
<WatKukut:ワット・ククット>

正式にはワット・チャーマティーウィと呼び、ランプーン市街の西に位置し、その起源はハリプンチャイ王国時代の8-9世紀まで遡ると云われている。尚、チャーマティーウィとは、仏塔を建立したとされる、ハリプンチャイ王国の女王の名前で、仏塔の台座には彼女の遺骨が納められていると云われる。
この仏塔は八角形の基壇の上に、五層の四角錐の塔が載っている。高さは21mで基底は約15m強である。各層には各面毎に3箇所の仏龕を穿ち、合計60体の仏像が安置された。この仏塔はスワンチャンコート(Suwan chang kot)と呼ばれ、創建当時は金色で覆われていたとのことであるが、長年の風雨により漆喰も剥落し、煉瓦が剥きだしになっている。また、塔の頂上には『クー』と呼ばれる飾りがあったとのことだが、今は失われてしまっている。

この塔に似た塔が、スリランカ中部の古都ポロンナルワのサトマハル・プラサーダ(12世紀)だと云う。確か1999年にポロンナルワの仏教遺跡を訪れた。この時見ているとは思うが、そのような視点で見ていないので、その記憶はない。12世紀、タイやビルマとの間で僧侶の往来が盛んで、このポロンナルワの仏塔はタイの職人が普請したとのことで、確かに似ている。(下写真は、サトマハル・プラサーダである。グーグルアースから借用した)
礼拝堂の脇に建つ八角形の小仏塔をラッタナー・チェディーと呼ぶ。直径4.4m、高さ11.5mで八角形各面の龕には、仏立像が安置されている。ハリプンチャイ国王、パヤー・サンパシットが12世紀に建立したものと伝えられている。
現地に立つと、あと100年も経れば、崩壊するのではないかと思うほど老朽化している。ユネスコなり日本は、このような優れた文化遺産の保護に対し、技術的な援助をすべきであろうと強く思った次第である。






北タイ名刹巡礼#8:ワット・プラタット・ハリプンチャイ

2016-07-11 08:25:59 | 北タイの寺院
<Wat Phra That Hariphunchai:ワット・プラタット・ハリプンチャイ>

チェンマイから30km南のランプーンにあり、ハリプンチャイ王国時代はその中心に位置していた。11世紀中頃にハリプンチャイ国王・パヤーアーティットヤラートが、仏舎利を納めた仏塔を建立したのが始まりだと云う。
正面から見ると白い山門と、その手前の一対のノラシンガ像(獅子)が目に入る。これは1447-1448年にランナー朝第9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)が、この寺院を改修した際に置かれたものである。その山門は小さな尖塔を持ち、全体的には宮殿のようであるが、これらはモン族のタワラワディー様式という。このノラシンガ像も山門も、1956年に改修を受けている。
ウィハーン・ルアン(ルアン礼拝堂)はランナー様式で、堂内には大中小の金色の仏像が安置されているが、中央左手の小さなガラスケースの中の仏像プラ・ケーオカーオ(白い水晶仏)は、チャーマティーウィ女王がロッブリーからやって来た時に持参したものだと云われている。しかし、13世紀末、ランプーンを占領したメンライ王がチェンマイに持ち帰り、現在はワット・チェンマンに祀られている。従って現在目にするのは、スイス産の水晶で作った仏像である。
仏舎利が祀られている黄金の仏塔は1418年建立で、20m四方の台座に建つ高さ46mを誇る、ランナー様式の仏塔である。その後1511-1512年にランナー朝の11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)が改修した歴史を持つ。この仏塔は酉年生まれを守護するということで、いたるところに鶏の置物が置かれている。

この仏塔の右奥に、古色で味わい深い仏塔が建つ。ワット・ククットの仏塔に似た、ハリプンチャイ様式のもので、8層の各層に仏龕があり、そこに仏像が納められている。しかし長年の風雨で多くの仏像が失われている。個人的にはランナー様式の黄金の仏塔よりも、この仏塔が気に入っている。












北タイ名刹巡礼#7:ワット・シースパン

2016-07-09 07:46:05 | 北タイの寺院
<Wat Siri Suphan:ワット・シースパン>

1500年、11代・ケーオ王(在位:1495-1525年)の創建で、1509年の日付のある中世ランナー文字で書かれた碑文が残っている。この寺院は後期ランナー朝の庇護を受け、1806年カーウィラ王(在位:1782-1816年)によって礼拝堂と経蔵が増築された。
この寺院は別名銀の寺と呼ばれ、日本人にとってはワンダーランドの世界であった。写真のように銀色の礼拝堂の前には、ガネーシャ像が建立され花々と灯火が絶えない。中世のランナー朝前期は大乗仏教とヒンズー教が混交した宗教であったとの痕跡が残るが、写真の景色はまさに、それを彷彿させる。
別名銀の寺とは、Ubosot(ウボーソット:本堂/布薩堂)の内外が銀色で現在も普請が継続している(最近落慶したようだ)。銀は酸化し黒ずむので、実際はステンレスやアルミ板を貼りつけてあるが、外眼には太陽を反射し眩しく、堂の中は金箔が貼られた仏坐像の金色が反射し、その内部が金色に見える。まさに金属の特徴を視覚的に遺憾なく発揮している。これは国王在位60周年と国王80歳誕生記念日を祝して建立中で、2004年から普請に着手したもので、300万Bの資金とのことである。それは現在も銀板(実際はステンレスとアルミ)貼りやレリーフの製作が継続している(最近落慶したようだ)。
この寺のあるウワラーイ通りは、昔から銀細工職人が集まっていることで有名で、これとの関わりを無視しては語れない建立と思われる。
ここにタイ人の気質が現れている。古いものには興味がなく、兎に角新しもの好きである。これで当面は観光客や参拝者を集めることが可能かと思われる。









北タイ名刹巡礼#6:ワット・ウーモン

2016-06-29 06:31:20 | 北タイの寺院
<Wat Umong:ワット・ウーモン>

旧市街の西、緑深い山中に本堂を構える。多くの寺院が街中や田園の中にポツンとあり、境内に木々が少ない寺院が多い中にあって、当該寺院は鬱蒼とした木立の中にあり、日本人が古刹を参拝するときの感性と合致する。
中央付近であったろうか、写真のアショカ王柱に似た柱が聳えており、際立つ存在であった。
ここは現在、瞑想修行を中心とした宗派の寺院で、メンライ王により13世紀末に建立され、1371年6代・クーナー王(1355-1385年)がスコータイから招いた、高僧スマナーのために改修した。寺院は山中にトンネル(ウーモン)を掘った洞窟寺院で、幾つかの通路が穿たれ、その末端や諸処に仏龕があり、そこに仏陀坐像が安置されている。2010年10月ー11月の1か月間で、北タイ各地の寺院を60ケ寺巡礼したが、その中でははじめての経験である。
その洞窟の左上には古色の仏塔が建っている。この仏塔も煉瓦製で漆喰塗りなのだが、所々剥落しているが、その程度が少ないことから、仏塔そのものはメンライ王の時代を下るものと考えられる。
この寺院は、外国人の修行も受入れており、毎週月曜日には英語の瞑想説法会が開かれている。





北タイ名刹巡礼#5:ワット・ジェットヨート

2016-06-24 07:04:04 | 北タイの寺院
<Wat Jet Yod : ワット・ジェットヨート>

旧市街北西部に位置している寺院で、1455年9代・ティローカラート王(在位:1441-1487年)によって建立されたもので、1477年同王によって仏典結集が行われ三蔵が編纂された。
山門は写真の如く、建立後500年を経過し崩壊が激しい。日本はこのような文化財保護に力を入れて保存の一助ができないものかと思う。
古くかつ立派な仏塔がある。釈迦が悟りを開いた地、インドのブッタガヤやミャンマーのパガンにある、マハーボディ寺院(大菩提樹寺)をモデルにしたと云われ、Jet Yod(7つの尖塔)の名の通り、中央の高い仏塔を6基の低い仏塔が囲んでいる。それはデバター(女神像)の浮彫がある長方形平面の高い基壇の上に、仏足跡モチーフの装飾があるピラミッド型のシカラ(塔状の屋根)、それを囲む四方に尖塔型仏塔、前方に二つの釣鐘状仏塔が載っている。この仏塔は、日本であれば間違いなく国宝級であるが、保存工事がしてなく、レリーフ等は風雨による崩落が心配である。
境内には1487年建立のティローカラート王の遺灰を祀る仏塔があるほか、後世に建立された堂塔伽藍が囲み、現在も礼拝堂を建立中である。この新旧をとりまぜたコントラストはあまりにも不釣り合いのように見える。
一般的にタイ人の気質を語る言葉として、“古いものには感心はなく、新しもの好き”と云われる。確かに古い文化財と思われるようなものに、何の躊躇もなく新しい塗料を塗って化粧直ししている姿を散見する。彼らにとり新と旧の併存は違和感がないのであろう。