『埴輪からみる古代の喪葬』とのテーマで、2回にわたって記事にする。執筆にあたり、穂積裕昌著・新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』を参考文献として用いている。
囲形埴輪
先に、三重県伊賀市・石山古墳(4世紀末)出土の囲形埴輪(ココ参照)を紹介した。
囲型埴輪は何を表すのか、考古学者の間で暫く論争が繰り返されてきたが、近年それに終止符を打つと思われる遺跡が発見された。それが奈良県御所市の南郷大東遺跡である。囲型埴輪は、古墳に葬られた貴人や権力者層の葬送儀礼にまつわる遺物と思われている。
(南郷大東遺跡)
南郷大東遺跡からは、上掲写真のように木製の導水施設が出土した。橿原考古学研究所によれば、覆屋の中で水の祭祀が行われていたとする。結論を先に記せば、これは囲形埴輪の導水土製品と極似していたことから、殯所(ひんしょ・もがりどころ)における遺体洗浄に関わる施設と考えられる。
三重県松阪市宝塚1号墳(古墳時代中期・5世紀前半)では出島状施設の東西両裾から導水施設型が1基、湧水施設型が2基の計3基の囲形埴輪がそれぞれ二重口縁壺形埴輪などと埴輪群を構成して出土した。船形埴輪とともに宝塚1号墳を象徴する埴輪である。
(家形埴輪・囲形埴輪・導水型土製品 新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』より 導水型土製品の上に家形埴輪が被さる)
(家形埴輪・囲形埴輪・湧水型土製品 新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』より 湧水型土製品の上に家形埴輪が被さる)
このうち導水施設型囲形埴輪は、遮蔽施設が喰い違い開口部を形成し、内側におかれた切妻形式の覆屋内に木槽樋(もくそうひ)形土製品がおかれている。木槽樋形土製品は、水の受部と排水部が覆屋外で、覆屋内部に中央がふくらんだ槽樋部をもつ。
(木槽樋形土製品 松坂市HPより)
湧水施設型囲形埴輪は、方形の一辺の中央部に開口部をもつ遮蔽施設内に切妻屋根の覆屋がおかれ、その内部に井戸状土製品をおく。このうち一基の開口部上には、鋸歯文を線刻した鰭飾りをもつ。
(湧水施設形土製品 松坂市HPより)
囲形埴輪は、その形状が何に由来するのかを巡り議論があった。それに一つの視点をもたらしたのが奈良県御所市南郷大東遺跡の「導水施設」だった。その遺跡では、導水施設を覆う覆屋(小形掘立柱建物)と、さらにその外周を囲む鉤形の囲い部(垣根状遺構)が確認された。この導水施設は、相前後して調査された兵庫県行者塚古墳、大阪府狐塚古墳と心合寺(しおんじ)古墳、そして宝塚1号墳で出土した木槽樋形土製品を内包した囲形埴輪と構造上の共通点をもち、両者は実物とそれを原形に埴輪化した関係にあることが明らかとなった。この木槽樋形土製品とは別に、井戸かと思われる井筒形の土製品を内包した囲形埴輪も出土した。
(行者塚古墳出土埴輪)
(御廟山古墳出土埴輪 堺市博物館にて)
囲形埴輪のうち、導水施設型は現実の遺跡との照応が可能である。それは南郷大東遺跡や、大阪府神並・西の辻遺跡がある。一方、湧水施設型は、覆屋をともなう井戸の出土例はあるが、それを遮蔽施設で囲んだ遺構は、現在のところ見当たらない。しかし時代は下るが伊勢神宮の外宮宮域内に所在する上御井神社と下御井神社の社殿構成が、湧水施設型埴輪の存在形態と非常に似ていると云う。両社は、ともに長方形の板垣で囲まれ、その中央部に井戸を内包した小さな社がある。
(下御井神社 湧水施設形社殿 Wikipediaより)
そこで囲形埴輪の性格をどうとらえるか。その中におかれた導水施設の性格が何であるのか。
導水施設は、祭祀場説を筆頭に、禊(みそぎ)場説、死者に捧げる特別な水の採取説、殯所(ひんしょ)説、産屋説などの見解があると云う。祭祀場説は、導水施設をカミをまつる祭祀施設、具体的には古墳時代の首長が水のマツリをおこなった場とするものである。しかし古墳の上で、ないいしは古墳に接する場所で水の祭祀が行われていたと仮定するには、やや無理と思われる。禊場説については、神マツリを行う前段階としての禊を想定する説と、古墳へ入る前の死者が禊をする場と捉える説の二つが存在する。主体が「神」か「死者」では、その意味するところは異なる。「禊」という行為は、はたして覆屋内、つまり室内の閉鎖空間でおこなわれるのであろうか。禊とは屋外の清浄な場所がそうであろう。一方、死者に捧げる特別な水の採取場説と殯所説は、「カミ」ではなく、「死者」の施設という点で共通性がある。
では、導水施設とは何であったのか。古墳への埋葬前に死者の霊を鎮め、遺体を浄める殯にかかわる場であったのではないか。
『日本書紀』神代下第九段正文では、アメノワカヒコの葬礼に関して、「便(すなわ)ち喪屋を造りて殯す」とあることから、殯には遺体を納める喪屋がともなうことを示すとともに、その場所を「美濃国藍見川之上喪山」とする。古い時期の殯所は川原に多いと指摘されている。つまり殯宮として定式化する以前の殯所は、喪屋が原初的な施設であり、水辺とも関係の深い施設であった。
『日本書紀』用明天皇即位前紀元年では、穴穂部(あなほべ)皇子が炊屋(かしきや)姫皇后(推古天皇)を犯そうと敏達天皇の殯宮に入ろうとした時、三輪君逆(みわのきみさかう)が「宮門を重樔(じゅうそう・さしかため)、拒(ふせ)きて入れず」とあり、殯宮が遮蔽施設で囲まれていたと記されている。
後世ではあるが、平安時代中期の『令集解(りょうしゅうげ)』喪葬令京官三位条殯歛(かん)之事には、屍体を衣衾で包んで棺に納め、棺も衣で包むとともに屍体を水で洗うことが示されている。
このように、囲形埴輪における導水施設型と湧水施設型は、ともに殯所における遺体洗浄に関わる施設と考えられる。
古墳に配置された囲形埴輪は、単に賑やかにするためのものではなく、死者の葬送儀礼に関わるものであった。その囲形埴輪の導水施設や湧水施設を覆う家形埴輪は、殯宮と考えられ神社建築の祖形と考えて間違いなかろう。
ではこれが古墳時代に突然登場したのであろうか? その萌芽は弥生時代に存在していたと考えたい。
(四隅突出墳丘墓 西谷墳丘墓群 3号墓)
それは出雲市の四隅突出墳丘墓である西谷3号墓で見られる。出雲市弥生の森博物館は以下のジオラマ展示を行っている。
先の出雲王の葬送場面のジオラマである。葬送儀礼とは王権引継ぎの儀礼でもあった。新王は先の出雲王を木棺に納め、第4主体と呼ぶ大きな土壙の底に置いた。4本の柱に囲まれた棺の上には朱色の丸い石が置かれていた。亡き先代王を偲び参会者が飲食する葬送の儀礼が行われていたであろう。
(出典・出雲市教育委員会パンフレット)
ジオラマにもあるように木棺の周囲には4本の柱が立てられ、そこには覆屋が設けらていたと考えられる。
(出典・出雲市教育委員会パンフレット)
この覆屋をともなったかと思われる4本柱の施設は何なのか。これが殯宮の祖形と考えている。このようにみれば、死者への葬送観は弥生時代(あるいは縄文時代)から古墳時代へと繋がっていると個人的に考えている。
<続く>