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埴輪からみる古代の喪葬・前編

2021-09-16 08:37:13 | 古代と中世

『埴輪からみる古代の喪葬』とのテーマで、2回にわたって記事にする。執筆にあたり、穂積裕昌著・新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』を参考文献として用いている。

囲形埴輪

先に、三重県伊賀市・石山古墳(4世紀末)出土の囲形埴輪(ココ参照)を紹介した。

囲型埴輪は何を表すのか、考古学者の間で暫く論争が繰り返されてきたが、近年それに終止符を打つと思われる遺跡が発見された。それが奈良県御所市の南郷大東遺跡である。囲型埴輪は、古墳に葬られた貴人や権力者層の葬送儀礼にまつわる遺物と思われている。

(南郷大東遺跡)

南郷大東遺跡からは、上掲写真のように木製の導水施設が出土した。橿原考古学研究所によれば、覆屋の中で水の祭祀が行われていたとする。結論を先に記せば、これは囲形埴輪の導水土製品と極似していたことから、殯所(ひんしょ・もがりどころ)における遺体洗浄に関わる施設と考えられる。

三重県松阪市宝塚1号墳(古墳時代中期・5世紀前半)では出島状施設の東西両裾から導水施設型が1基、湧水施設型が2基の計3基の囲形埴輪がそれぞれ二重口縁壺形埴輪などと埴輪群を構成して出土した。船形埴輪とともに宝塚1号墳を象徴する埴輪である。

(家形埴輪・囲形埴輪・導水型土製品 新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』より 導水型土製品の上に家形埴輪が被さる)

家形埴輪・囲形埴輪・湧水型土製品 新泉社『舟形埴輪と古代の葬送』より 湧水型土製品の上に家形埴輪が被さる)

このうち導水施設型囲形埴輪は、遮蔽施設が喰い違い開口部を形成し、内側におかれた切妻形式の覆屋内に木槽樋(もくそうひ)形土製品がおかれている。木槽樋形土製品は、水の受部と排水部が覆屋外で、覆屋内部に中央がふくらんだ槽樋部をもつ。

(木槽樋形土製品 松坂市HPより)

湧水施設型囲形埴輪は、方形の一辺の中央部に開口部をもつ遮蔽施設内に切妻屋根の覆屋がおかれ、その内部に井戸状土製品をおく。このうち一基の開口部上には、鋸歯文を線刻した鰭飾りをもつ。

(湧水施設形土製品 松坂市HPより)

囲形埴輪は、その形状が何に由来するのかを巡り議論があった。それに一つの視点をもたらしたのが奈良県御所市南郷大東遺跡の「導水施設」だった。その遺跡では、導水施設を覆う覆屋(小形掘立柱建物)と、さらにその外周を囲む鉤形の囲い部(垣根状遺構)が確認された。この導水施設は、相前後して調査された兵庫県行者塚古墳、大阪府狐塚古墳と心合寺(しおんじ)古墳、そして宝塚1号墳で出土した木槽樋形土製品を内包した囲形埴輪と構造上の共通点をもち、両者は実物とそれを原形に埴輪化した関係にあることが明らかとなった。この木槽樋形土製品とは別に、井戸かと思われる井筒形の土製品を内包した囲形埴輪も出土した。

(行者塚古墳出土埴輪)

(御廟山古墳出土埴輪 堺市博物館にて)

囲形埴輪のうち、導水施設型は現実の遺跡との照応が可能である。それは南郷大東遺跡や、大阪府神並・西の辻遺跡がある。一方、湧水施設型は、覆屋をともなう井戸の出土例はあるが、それを遮蔽施設で囲んだ遺構は、現在のところ見当たらない。しかし時代は下るが伊勢神宮の外宮宮域内に所在する上御井神社と下御井神社の社殿構成が、湧水施設型埴輪の存在形態と非常に似ていると云う。両社は、ともに長方形の板垣で囲まれ、その中央部に井戸を内包した小さな社がある。

(下御井神社 湧水施設形社殿 Wikipediaより)

そこで囲形埴輪の性格をどうとらえるか。その中におかれた導水施設の性格が何であるのか。

導水施設は、祭祀場説を筆頭に、禊(みそぎ)場説、死者に捧げる特別な水の採取説、殯所(ひんしょ)説、産屋説などの見解があると云う。祭祀場説は、導水施設をカミをまつる祭祀施設、具体的には古墳時代の首長が水のマツリをおこなった場とするものである。しかし古墳の上で、ないいしは古墳に接する場所で水の祭祀が行われていたと仮定するには、やや無理と思われる。禊場説については、神マツリを行う前段階としての禊を想定する説と、古墳へ入る前の死者が禊をする場と捉える説の二つが存在する。主体が「神」か「死者」では、その意味するところは異なる。「禊」という行為は、はたして覆屋内、つまり室内の閉鎖空間でおこなわれるのであろうか。禊とは屋外の清浄な場所がそうであろう。一方、死者に捧げる特別な水の採取場説と殯所説は、「カミ」ではなく、「死者」の施設という点で共通性がある。

では、導水施設とは何であったのか。古墳への埋葬前に死者の霊を鎮め、遺体を浄める殯にかかわる場であったのではないか。

『日本書紀』神代下第九段正文では、アメノワカヒコの葬礼に関して、「便(すなわ)ち喪屋を造りて殯す」とあることから、殯には遺体を納める喪屋がともなうことを示すとともに、その場所を「美濃国藍見川之上喪山」とする。古い時期の殯所は川原に多いと指摘されている。つまり殯宮として定式化する以前の殯所は、喪屋が原初的な施設であり、水辺とも関係の深い施設であった。

『日本書紀』用明天皇即位前紀元年では、穴穂部(あなほべ)皇子が炊屋(かしきや)姫皇后(推古天皇)を犯そうと敏達天皇の殯宮に入ろうとした時、三輪君逆(みわのきみさかう)が「宮門を重樔(じゅうそう・さしかため)、拒(ふせ)きて入れず」とあり、殯宮が遮蔽施設で囲まれていたと記されている。

後世ではあるが、平安時代中期の『令集解(りょうしゅうげ)』喪葬令京官三位条殯歛(かん)之事には、屍体を衣衾で包んで棺に納め、棺も衣で包むとともに屍体を水で洗うことが示されている。

このように、囲形埴輪における導水施設型と湧水施設型は、ともに殯所における遺体洗浄に関わる施設と考えられる。

古墳に配置された囲形埴輪は、単に賑やかにするためのものではなく、死者の葬送儀礼に関わるものであった。その囲形埴輪の導水施設や湧水施設を覆う家形埴輪は、殯宮と考えられ神社建築の祖形と考えて間違いなかろう。

ではこれが古墳時代に突然登場したのであろうか? その萌芽は弥生時代に存在していたと考えたい。

(四隅突出墳丘墓 西谷墳丘墓群 3号墓)

それは出雲市の四隅突出墳丘墓である西谷3号墓で見られる。出雲市弥生の森博物館は以下のジオラマ展示を行っている。

先の出雲王の葬送場面のジオラマである。葬送儀礼とは王権引継ぎの儀礼でもあった。新王は先の出雲王を木棺に納め、第4主体と呼ぶ大きな土壙の底に置いた。4本の柱に囲まれた棺の上には朱色の丸い石が置かれていた。亡き先代王を偲び参会者が飲食する葬送の儀礼が行われていたであろう。

(出典・出雲市教育委員会パンフレット)

ジオラマにもあるように木棺の周囲には4本の柱が立てられ、そこには覆屋が設けらていたと考えられる。

(出典・出雲市教育委員会パンフレット)

この覆屋をともなったかと思われる4本柱の施設は何なのか。これが殯宮の祖形と考えている。このようにみれば、死者への葬送観は弥生時代(あるいは縄文時代)から古墳時代へと繋がっていると個人的に考えている。

<続く>


古代関連博物館と驚いた展示物3種4点

2021-06-30 09:05:52 | 古代と中世

過日、所用にて京都へ、その往路を寄り道して古代関連博物館や資料館を訪れた。予定していたのは下掲したGoogle Earthにプロットした施設。実際は時間の関係で鳥取県埋蔵文化財センターと安満遺跡公園はパスした。

訪問した博物館で、意外にも驚きをもって観た3種4点の考古遺物ないしはそのレプリカがある。それを以下に紹介する。

堺市博物館展示の黄金(実際は金メッキ)に輝く金銅製甲冑である。仁徳天皇陵から出土したもので、まさか仁徳天皇が身に着けていたわけではなかろうが、相当身分の高い人物が着用していたものと思われる。実際の戦闘場面でこのような甲冑を着用しておれば、目立ちすぎて身に危険が及ぶ。従って儀礼の際に用いたものと思われるが、現在でもそうだが、権力とは恐ろしいものだ。

次の青谷上寺地遺跡出土の銅鐸の鰭である。何の変哲もなさそうだが、その文様に深い意味がある。まずご覧いただきたいとは云うもののコントラストがイマイチで、文様がご覧いただけるかどうか?

余程、眼を凝らして頂かないと分からないかもしれない。二重円圏に内接する4箇所を頂点に内側に弧を描く文様である。これを『七宝文』と呼ぶ。この4箇所の頂点が8箇所あって、同様に弧を描く文様をもつ銅鏡を内行花文鏡と呼んでいる。

この七宝文をもつ銅鐸の鰭に意味がある。銅鐸はご存知のように弥生後期に突然姿を消す。銅鐸を祭祀に用いないエイリアンが突然来襲したのか?・・・この手の話は置いておくとして、銅鐸の消滅は銅鐸工人の行方が気になる。

どこの遺跡から出土したか失念したが、この七宝文を主文様とした銅鏡が存在する。つまり職を失った銅鐸工人は、銅鏡製作工人に転職しいた可能性を示す銅鐸の鰭である。相当苦労したであろうとの察しがつく。銅鐸の文様は流水文や稚拙な人物や動物の線画である。ところが道鏡は中国的な複雑なモチーフが多い。いつの世も転職は苦労する。

3種目は京都大学総合博物館展示の家形埴輪である。家形埴輪と云えば、寄棟造り・入母屋造りが相場だ。しかし、三重県伊賀市・石山古墳(4世紀末)出土の家形埴輪は屋根が片流れ式である。このような屋根の埴輪は初見で、古墳時代に至り、種々の家屋が存在したであろうこがうかがわれ、必ずしも金太郎飴でなかったことが嬉しかった。

家形埴輪はバラエティーに富んでいる。別途紹介したい。

<了>

 


下之郷遺跡(2)

2021-03-10 08:10:54 | 古代と中世

<続き>

弥生時代中期(2200年前)の下之郷遺跡は三重の環濠に取り囲まれていた。

(下之郷遺跡パンフレットより)

魏志倭人伝の冒頭に、“倭人在帯方東南大海之中、依山島為國邑。旧百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。・・・略・・・其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王。”・・・と記されている。

邪馬台国時代に倭人の三十の国々が魏に使訳を通じていたという。その三十の国々とは、対馬国から始まって、最後の狗奴国まですべての国名が記されている。

下之郷遺跡と魏志倭人伝との時代観は必ずしも一致しないが、下之郷遺跡は“旧百餘國”の一国であったと考えられる。そして倭人伝の時代には、狗奴国を構成する一国ではなかったのか?

(下之郷遺跡パンフレットより)

卑弥呼の時代、下之郷遺跡は狗奴国の重要な一員として、邪馬台国と対抗していたであろうとの妄想を抱かせる。三重の環濠は、それほどの有力な国邑であったと考えられる。その証拠として多くの武器や武具類が出土しており、守山市教育委員会発刊のパンフレットには吉野ヶ里のような城柵を掲載している。

<了>

 


下之郷遺跡(1)

2021-03-09 07:30:25 | 古代と中世

(三重の環濠がめぐらされた下之郷遺跡)

弥生時代中期(2200年前)の稲作遺跡である守山市の下之郷遺跡から温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの稲籾が出土している。環濠や井戸の土を水洗いすると、多くの稲籾が見つかった。炭化していない籾をDNA分析したところ『熱帯ジャポニカ』が含まれていた。

イネの研究家である佐藤洋一郎氏は中国、朝鮮半島、日本の水稲在来品種250品種のRM1というDNA解析を行った。イネは4種類の塩基(A、T、C、G)の並びによって遺伝情報を保存しており、それをSSR領域と呼ぶそうだ。その250品種のSSR領域を調べると、8つの変形タイプが発見された。AからHまでの8遺伝子のうち、B遺伝子は朝鮮半島の在来品種のなかでは見つからず、日本と中国では高い頻度で分布していた。A遺伝子は、中国大陸ではそれほど高頻度では分布せず、朝鮮半島と日本では高い頻度で分布する。この遺伝子は朝鮮半島を経由して日本に達した。つまり水稲のなかに朝鮮半島を経由したものと、中国から直接渡来したものの2系統が存在したと考えられる。

弥生時代中期の下之郷遺跡を遡る縄文前期頃に、焼畑栽培と熱帯ジャポニカのセットが、柳田国男氏が唱える『海上の道』を伝わって来たであろうと想像される。それは西日本の照葉樹林帯に焼畑の陸稲として栽培されていたであろう。

その後、先述したように数次にわたって朝鮮半島南部を経由したり、中国から直接渡来した水稲用の稲籾が、その栽培技術と共に渡来したと考えられる。

守山市の下之郷遺跡からは熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの稲籾が共に出土した。陸稲の熱帯ジャポニカが水稲用に変化したのか、あるいは水稲の熱帯ジャポニカも別途渡来したのか詳細は不明なるも、熱帯と温帯の各ジャポニカを混植すると、その交雑種が生まれるとともに、病気への耐性も向上し収穫も早くなるという、佐藤洋一郎氏の実験結果が存在する。下之郷遺跡から出土した熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの稲籾出土は、混植の結果にほかならない。高度な稲作が展開されていたと想定される。

(上掲写真は下之郷遺跡出土土器:守山市埋蔵文化財センターにて)

<続く>


講演会『農耕社会成立期の日韓における磨製石剣文化』

2020-12-20 08:10:59 | 古代と中世

昨12月19日(土)は、荒神谷博物館・学習室にて島根大学法文学部准教授の平群達也氏の首記講演会が開催されたので、事前予約の後行ってみた。会場は広いとは云えず、座席間隔も1m程度で狭く、まさに密状態である。出雲でもクラスター発生、残念ながら聴講はあきらめ資料のみ頂いて帰宅した。

講演を聴講しておらず、配付資料からの推測で恐縮だが、出雲市・原山遺跡からも磨製石剣が出土している。

朝鮮半島の支石墓の副葬品として磨製石剣が埋納されていると云う。やはり権力を持つ人の副葬品であったと記されている。日本列島では北部九州に出土例が多く、その東端が出雲・原山遺跡と讃岐のようである。

結局、朝鮮半島から青銅器文化の流入と稲作・農耕社会の形成・展開過程と連動しているようだ。

この磨製石剣は遼東半島や現在の平壌付近からも多々出土しているとのこと。稲作と共に流入したとあるが、稲作の北回りルートには多少疑問を感じている。朝鮮半島の北から南へ磨製石剣文化が移動し、その南朝鮮で磨製石剣と稲作が出会い、それが原山遺跡へ伝播したと解釈したい。

<了>