goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

県立出雲古代歴史博物館#4:卑弥呼の鏡

2016-05-23 07:11:22 | 博物館・島根県

<続き>

「魏志 東夷伝・倭人条」には239年(景初3年)魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述が あることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説がある。景初3年とは、2代皇帝曹叡の没年と3代皇帝曹芳が即位した年である。魏は三國志で著名な曹操が建国した。
その卑弥呼に下賜されたと云われる、景初3年銘銅鏡が、島根県雲南市加茂町神原の神原神社古墳より出土した。これと、付近より大量の青銅器が出土したことから、邪馬台国は出雲に在ったという意見がある。そう安直なものではないだろう。

 

この銅鏡に限らず、旧出雲国西部では青銅器が大量に出土している。邪馬台国に匹敵する強大な勢力が存在していたであろう。次回は大量に出土した銅鐸を紹介する。




                          <続く>



県立出雲古代歴史博物館#3:国宝荒神谷銅剣

2016-05-22 07:28:17 | 博物館・島根県

<続き>


 

 

 

一遺跡としては、日本最多の358本の銅剣が出土した。所蔵は文化庁だが現物は、ここ県立出雲古代歴史博物館が保管管理・展示している。写真のように行て前面の壁面一面に展示されており、見るものを圧倒する。この展示の仕方はプロのなせる業であろう。

同じ荒神谷遺跡から、これも日本最多である16本の銅矛が出土している。魏志東夷伝倭人条に登場する「邪馬台国」、出雲がそれだと、するには地理的に合致しないが、曲解を招くほど巨大な勢力が当地に存在していたであろう。




                              <続く>


県立出雲古代歴史博物館#2:須恵器焼成の登り窯

2016-05-21 06:55:22 | 博物館・島根県

<続き>

写真は飛鳥時代頃の祭祀用の須恵器とのことである。神酒を祭祀用に入れたのであろうか?

これらの須恵器焼成用の窯場風景がジオラマになって展示されていた。1300年前の須恵器登り窯を再現したものだと、キャップションに表示されている。
見ると、大きな登り窯で、陶工が窯の中に入って、焼成する器類を並べている様子が表現されている。相当大きな窯のようであるが、見ると窯内部の仕切りはなく、単室窯のようである。つまり、穴窯を大きくしたものである。この手の窯は燃焼効率が良いのであろう。中世北タイは横焔式単室窯で、穴窯の構造と変わりない。効率の良さが、長期にわたって採用されたものと思われる。

 

 

この窯では、須恵器ばかりではなく、雨乞いや祓いのための土馬も焼かれたとのことである。

写真の土馬を見て、北タイ陶磁愛好家ならすぐにピンとこられたと存ずる。そう、北タイの動物肖形物と姿・形がそっくりである。北タイの動物肖形物については諸説あるが、北タイもまた祭祀・祓い用に用いられたと思われる。




                             <続く>






県立出雲古代歴史博物館#1:雲太和二京三

2016-05-20 08:47:27 | 博物館・島根県

県立出雲古代歴史博物館は、地元に在りながら行く機会がない、過日2年振りに行ってみた、以降数回に渡り紹介したい。
平安時代の古書「口遊(くちずさみ)」に、雲太和二京三とある。当時(10世紀)の建物の大きさを謡ったものであるが、雲太とは出雲大社本殿、以下東大寺大仏殿、平安京大極殿と続く。平安時代の出雲大社本殿は16丈(48.48m)で、東大寺大仏殿の15丈を凌いでおり、上古には32丈もあったという。

 

この模型は、1989年大林組プロジェクトチーム発表の復元案を模型にしたもので、縮尺は1/10である。

出雲国造家には金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)が伝世してきた。これを世に明らかにしたのは本居宣長であるが、このように大仏殿をも凌ぐ建物が、出雲の僻地に存在するはずがないとされてきたが、平成12年ー13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が 約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。中央は、棟をささえる柱 すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものが出土したのである。
これにより、巨大本殿が存在していたこと、すなわち上記大林組の復元模型にある本殿が、立証されたのである。

上古は、この模型を上回る高さ90mにも及ぶ本殿であったという。やや常軌を逸しているが、荒唐無稽とも思われない。

写真は、鳥取県米子市・稲吉角田遺跡出土土器に刻まれた絵画で、高殿が描かれている。4本柱と梯子ないしは階段が描かれ、その高さは常軌を逸している。
この高殿や上古の出雲大社本殿は、縄文人の仕業であろうか? 青森の三内丸山は縄文の巨木遺跡である。弥生土器の高殿、上古の出雲大社本殿、山内丸山の縄文巨木遺跡の底流には、何がしら繋がるものがありそうだ。
そのように考えると、出雲国造家は縄文人の末裔であろうか? 渡来人(弥生人)の代表である大和王権、大国主命は国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿を建て籠ることになる。縄文人の末裔国家が滅び、証としての巨大建築物を残したのであろう。・・・との空想が、まんざらでもないような気分にさせてくれる、展示物群であった。




                                 <続き>






松江・風土記の丘ミュージアム・その4

2016-05-10 08:05:04 | 博物館・島根県

<続き>

当該ブロガーからみれば多少なりとも驚きである。それは陶棺を見て感じたことである。吉野ヶ里の甕棺も相当大きかったが、それは2つの甕をつなぎ合わせたもので、見方によっては、少し大きめの甕なので造作はないものとも思える。
しかし、風土記の丘ミュージアムで見た陶棺は、巨大とは云わないが、死者を横たえて納棺するのに十分である。このような棺を焼成するには、それなりの窯が必要である。先ず、その陶棺を御覧頂きたい。

棺本体は中央で、蓋はやや左側で破断しているが、このような大型構造物をよく焼成したものだと・・・感心する。強度をますために20-30cm間隔でリブを入れている。まさに現代でも通用する力学的構造である。その焼成場所と窯跡は以下のように紹介されている。

 

写真は渋ヶ谷1号窯と紹介されている。15-20度程の傾斜地に全長10m程度であろうか、所謂穴窯と思われるが、進化した登り窯であろうか。
中世、北タイの横焔式単室窯と大きな違いはない。上記渋ヶ谷1号窯から1000年後のことである。このように基本構造を同じくすると云うことは、よほど優れた焼成原理を持つからであろう。

                          <了>