島根県邑南町には四隅突出墳丘墓の一つである順庵原墳丘墓が存在する。その邑南町郷土館展示の弥生・古墳時代の遺物を紹介する。
当地は砂鉄による『たたら製鉄』の本場である。そのたたら関連と日本刀製作過程の展示物を紹介する。
次回は弥生時代の出土遺物を紹介する。
<続く>
島根県邑南町には四隅突出墳丘墓の一つである順庵原墳丘墓が存在する。その邑南町郷土館展示の弥生・古墳時代の遺物を紹介する。
当地は砂鉄による『たたら製鉄』の本場である。そのたたら関連と日本刀製作過程の展示物を紹介する。
次回は弥生時代の出土遺物を紹介する。
<続く>
<続き>
期待をもたせるポスターであったが、内容に物足りなさを感じた。そのなかで、”これは”と思わせる内容の展示があったが、撮影禁止とのことで、写真を写すことはできなかった。
帰宅後、インターネット検索すると、糸島市HPにそれが掲載されていたので、それを借用して以下に掲げておく。
写真が見辛く恐縮である。写真手前中央は伊都国王と思われる墳丘墓、その先に柱(写真で白色)が立ち、其の先の山と山の間の谷から、太陽が昇ると云う。これをもって、柱は太陽信仰の証だと説く識者がいるという。
事例が重なると、驚きが消えうせる。当該ブログで何度も触れてきた。吉野ヶ里遺跡、NHKにおける諏訪の御柱の放映、そこに登場した能登の真脇遺跡も太陽崇拝と関連有りとみた。
海外では、北タイのパロン族のファンチャイバーンである。つまりクニの中央には柱がたつという、東アジア・東南アジア共通の事象ということになる。
<了>
地元にありながら十数年振りである。特別展で「伊都国」を取り上げているとのことで行ってみた。今年の春、吉野ヶ里や平戸を訪れた際、糸島の伊都国王墓や歴史博物館へ行ってみたかったのだが時間がなく、行けずじまいであった。
結論から先に云えば、日本国内最大鏡である径46.5cmの内行花文鏡は、その大きさは見るに値するものであったが、その他は期待の大きさに対し、拍子抜けするほどで残念であった。
荒神谷博物館の敷地と云おうか、博物館の建物の南の谷で1984-1985年に銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。これらはいずれも国宝に指定され、多くが島根県立出雲歴史博物館で一括展示されている。その一部が、ここ荒神谷博物館で展示されていたので、以下紹介する。
以下、発掘現場の再現ジオラマである。見るからに整然と並べて埋納したものである。これらは誰が何の目的で埋納したのであろうか? その論たるや百家争鳴である。いずれも成るほどと思えるが、何かが抜けているように思われる。しかしながら、クニの滅亡というか終焉に絡むできごとであろう。
次回は、期待外れであったが「伊都国展」にちなむ話を紹介したい。
<続き>
<続き>
6世紀後半の西出雲の古代豪族の復元像である。時代はやや遡るが、朝鮮半島伽耶(狗邪韓国)からの出土品や復元武人像に似ている。先ず6世紀の環頭太刀である。
写真が見辛いので、復元太刀の写真を見ていただきたい。
以下、写真が不鮮明で恐縮であるが、韓国・金海国立博物館の展示品である。
写真に掲載していないが、日本や朝鮮半島から出土する銅剣、写真の鉄剣、金冠は騎馬民族の匂いがする。それらはスキタイの黄金文化につながりそうである。そのような想いを馳せる展示であった。
<続く>
<続き>
加茂岩倉遺跡は、松江自動車道の脇の山中で、よくもこのような山の中で出土したものと感心する。その銅鐸の一部を紹介したい。
祭祀に用いたであろう銅鐸、それを1箇所に、しかも39個もの大量を一括埋納した理由は何であろうか?なぜ加茂岩倉の地に埋納したのか?諸説紛々であるが、説得力のある説は一つもない。
日本国内だけでなく、東さらには北東アジア、場合によってはスキタイとの関連を含めた、もっと広い視野で捉える必要があるであろう。
<続く>