<続き>
(特殊器台:弥生後期)
古代吉備の特徴は何といっても写真の特殊器台と上に載る土器である。レプリカのようだが良くできている。
辺や角をみるときちんと製材されている。これで床を張れば、冬季の隙間風を防げそうだ。北タイ山岳民の床上式住居を見ていると隙間だらけだが、弥生期の建物はそれなりに精緻であったろうか?
上の写真は楯の断片で朱が塗られている。この朱が塗られた楯は列島各地で出土している。倭国には大乱があった。
<続く>
<続き>
(特殊器台:弥生後期)
古代吉備の特徴は何といっても写真の特殊器台と上に載る土器である。レプリカのようだが良くできている。
辺や角をみるときちんと製材されている。これで床を張れば、冬季の隙間風を防げそうだ。北タイ山岳民の床上式住居を見ていると隙間だらけだが、弥生期の建物はそれなりに精緻であったろうか?
上の写真は楯の断片で朱が塗られている。この朱が塗られた楯は列島各地で出土している。倭国には大乱があった。
<続く>
<続き>
今回から遺跡Museumの展示品を紹介する。
岡山市北区いずみ町:月曜休館
開館時間:9:00-16:30 入館:無料 写真撮影可能
津島遺跡の北東から南西に向かって流れていた幅50mの川から、弥生後期の多くの土器や木製品が出土した。その展示である。
キャップション記載の見方以外に、高床式建物を飾っていた可能性があると考える。
農耕具の種類が豊富であったことに驚かされる。戦後間もないころの状況と大きく変わらない。
<続く>
<続き>
津島遺跡の建物は微高地に築かれていたと説明されている。その建物近くには水田跡が出土し、僅かながら今日も栽培していた。
高床式建物は柱に鼠返しがついているので、高倉として用いられたものである。これらは何れも想定復元建物であるが、細部はともかく当時と大きくかけ離れていないであろう。
写真の想定復元建物は何であったのか、土間式の住居であろうか?
<続く>
今回から岡山・津島遺跡と遺跡Museumの展示遺物の紹介で、その1回目は遺跡についてである。
場所は岡山市北区いずみ町、昭和43(1968)年武道館建設前の発掘調査で、弥生時代前期の集落と水田が同時に確認されたとのことである。
特筆すべきは、上のパンフレット右下の建築資材の一括出土である。それは高床建物の建築部材が一箇所にまとまって出土したことで、それを基に高床建物が復元展示されている。他の遺跡の復元建物と異なるのは、他の遺跡は推定復元であるのに対し、ここ津島遺跡は復元建物である。その復元建物から紹介する。
床下にあたる部分の柱に鼠返しが見当たらないので、この建物は高倉ではなく住居と考えられる。しかし日の当たる岡山と云えども真冬は氷点下の気温と考えられ、寝起きするのは相当の寒さが考えられる。床に炉をきって薪を燃やし暖をとっていたとも考えられるが、冬季は竪穴住居で生活し、梅雨から夏にかけてこの高床式住居で生活していたであろうと勝手に想像している。
遺跡Museumに出土した部材と、その様子が床下に展示されている。壁は竹を割いて枌(へぎ・細長い竹の薄板)を網代に編んだものではなく、小さな径の木材をそのまま立てかけ(2枚上の写真・中央から右)ており、冬季は隙間風にさらされていたであろうと想像される。梅雨から夏季とは云え高床式住居は存在した。
<続く>
8月6日ー9日にかけてのハウステンボス紀行以降は東奔西走、北はないが南へと席のあたたまる暇がない。従ってブログも飛び石となっている。本日も東へ出かける前のUp Dateである。
岡山県立博物館の前庭には、石棺が2基置いてある。今回はそれをUp Dateして岡山県立博物館の展示品の紹介を終える。
弥生から古墳時代にかけての朱は水銀朱とベンガラ朱があるが、紹介した2つの古墳については、その記載がないのでどちらか不明。朱に被葬者の再生を願ったのか?
<了>