シニアー個人旅行のかわら版

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なまず料理の町吉川と近藤勇

2008-02-29 09:47:53 | Weblog
吉川、なまず料理の町」と言っても、関東の方でも吉川がどこにあるのかお分かりにならないでしょう。今月、民放でも、NHKでも、相次いで、吉川なまず料理の老舗麹家が紹介されましたので、それに触発されて出かけてきました。

以前、何度となく、吉川の町を車で抜けてことがあり、うなぎやなまず料理の看板を出す店が多いのは知っていましたが、当時は交通の便が悪く、周りは田んぼや畑が目立ち、寂れた町という印象で閑散としていました。
しかし、JR武蔵野線が開通、都下の府中本町から所沢、浦和、吉川、流山、船橋、浦安、そして東京駅と、首都圏を大きく取り囲むように結んでからは、吉川の町の装いは一変、住宅地が急速に広がり、首都圏へのベッドタウンの様相を見せています。

旧街道沿いに麹家があります
 吉川の駅から、メインストリートを北に向って歩き始めましたが、麹家の看板がなかなか見つからず、親子ずれに道を尋ねましたが、分からないとのこと、新住民の方だったのでしょう。旧街道は、一本西側の、中川沿いの道でした。
旧街道に面している麹家の入り口は裏門で、反対側の、中川に面しているのが正面玄関になっています。江戸時代の商家らしく、街道に面する間口は狭く、奥に長く伸びる敷地に細長く立つ二階家の料亭です。

江戸時代、吉川は水運で栄えました
ここ吉川は江戸時代から明治初頭まで利根川水系の中川を通して物資の集散地であり、江戸からわずか八里という水運の利点を生かし、高瀬舟が行きかい、船頭や荷積み人がせわしく働き、河岸問屋には荷を預ける客や旅人が集まり、水産物を扱う浜方問屋、穀物問屋、旅籠、茶屋が軒を並べる活気ある町で、関東各地と江戸を水運で結びつける河岸として繁栄していました。
鉄道建設や道路の整備が進んだ明治の中頃から、陸上運送にその役割を奪われ、衰退し、やがて田園の中に取り残されてしましました。

いよいよなまず料理です
 訪れたのは平日の午後一時、一階では団体客、二階の広間には四人グループが食事をしていました。うなぎ料理もありますが、折角ですから、「なまずづくし」4,200円を注文、卵の煮付け、刺身、照焼、天ぷら、たたき揚げ、マリネ、団子汁の七品です。卵の煮付けはなまずの卵の感触がよく残っており、もみじおろしの薬味で頂く刺身はふぐのような歯ごたえ、照焼はブリのそれを思い起こさせ、天ぷらは白身で淡白、たたき揚げは香ばしくなまずの骨の歯ごたえが何ともいえず、洒落たマリネ、団子汁の上品な香りと味、なかなかの物でした。特に気に入ったのが、たたき揚げで、吉川の郷土料理となっているとのこと、土産に買い求めました。
先客の女性4人グループは、「ほんとうに淡白な味」「上等な鶏肉なよう」と盛んに感想を述べ合っていました。

近藤勇はいつ吉川に来たのでしょうか
 糀家のホームページにも述べられていますが、近藤勇や勝海舟が訪れたという伝聞があるようですが、いつ頃のことなのでしょうか。勝海舟は幕末から明治と、江戸そして東京に住んでいましたから可能性はありますが、近藤勇の場合はどうでしょうか。
鳥羽伏見の戦いに敗れ、京都から海路江戸に戻り、さらに甲州勝沼での戦いにも敗退、江戸を通り抜けて、中川、江戸川を渡り、最後の陣を流山に構えますが、その行軍の途中で、吉川近くを通った筈ですから、その頃に立ち寄ったのか知れません。

珍しいなまず料理を味わい、ギャラリーに展示された江戸時代から伝わる絵画、書、色紙に麹家の由緒ある400年の歴史に触れ、ここを訪れた先人たちに思いを馳せた一日でした。

関連リンク:
料亭麹家
近藤勇流山陣屋

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