シニアー個人旅行のかわら版

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東京近郊散策(1)・・・流山・吉川へ

2008-03-14 08:27:48 | Weblog
  日々暖かくなっています。いよいよハイキングの季節がやってきました。東京から手軽に足をのばすことができる流山(千葉県)と吉川(埼玉県)への電車の旅に出かけてみませんか。
近藤勇」「小林一茶」「なまず料理」・・・これがこの旅のキーワードです。

東京       9:00 東京メトロ千代田線
馬橋駅     9:40 総武流山電鉄
平和台駅     10:00 散策開始
近藤勇陣屋跡 10:20
一茶双樹記念館 10:30~11:30
 流山橋・三郷駅 11:30~12:15
 

三郷駅     12:15 JR武蔵野線
吉川駅     12:30
 料亭麹家     12:45 ~13:45 (昼食:なまず料理)
吉川駅     14:00 
南浦和駅    14:30 JR京浜東北線
東京      15:00 

*時刻はおおよその目安です。本数の少ない流山電鉄でも15分ごとに出ています。
*一茶双樹記念館は月曜日が休館、麹屋は不定休です。

旅のご案内
馬橋駅
 馬橋は旧水戸街道沿いにあります。小林一茶ゆかりの地で、ここで油商を営んでいた大川立砂の庇護を受け、江戸から度々訪ねています。一茶の消息が不明である15歳から25歳までの間、大川油屋に奉公、立砂から俳句の手ほどきを受けたという伝聞が地元に伝わっています。立砂の死後、大川油屋は没落、その地を示す史標が立っているだけです。一茶が訪れた萬満寺が馬橋駅からすぐのところにあります。

流山電鉄
 流山から常磐線馬橋駅を結ぶわずか5.7キロ、6駅の鉄道です。1913年流山の有志の出資で軽便鉄道として敷設されました。建設当初は狭軌で、貨車の常磐線への乗り入れが出来ませんでしたが、軽便鉄道開通前は2時間をかけて松戸駅まで歩いていた流山の人々にとっては便利な路線となりました。レトロな車両は今でも鉄道ファンに人気があります。

流山散策(一茶双樹記念館ホームページ地図参照)
平和台駅から近藤勇陣屋跡へ
 江戸川方向へ真っ直ぐ歩きます。県道流山線を横断、昔のメインストリート、裏街道にぶつかります。ここを右に進むと直ぐ、左手に駐車場があり、ここが近藤勇の陣屋があったところです。説明版があります。

一茶双樹記念館へ
 裏街道を戻り、流山橋の方向へ進みます。道祖神が祭られていたり、お寺があったり、醸造所があったり、昔の流山を感じさせる道です。10分ほど歩くと左手に一茶双樹記念館があります。記念館は白味醂の醸造に初めて成功した秋元本家の屋敷で、一茶と親しい間柄であった五代目秋元双樹が住んでいたところで、小林一茶は双樹が亡くなるまでの10年に亘り、ここを幾度となく訪れています。

 記念館は二棟の建物からなり、入り口の建物の一階が受付、二階が一茶直筆の書や関係文書が展示、奥の母屋は六代目が立てた150年前の建物で、当時の豪商の生活ぶりを垣間見ることが出来ます。(冒頭の写真)
四季折々の花々が咲く日本庭園を眺めながら茶菓を楽しむことができ、茶会・句会が定期的に開かれ、テレビドラマの撮影が行われたこともあるとのことです。
 記念館の南は、塀越しに、広大な空き地となっていますが、ここが秋元家の味醂「天晴(あっぱれ)」の醸造所があったところで、秋元家が衰退した後、幾多の手を経て、最近までメルシャン醸造工場があったところです。

記念館から三郷駅(埼玉県)へ
 一茶双樹記念館の斜め前の森の中が洋画家故笹岡良一氏のアトリエで無料公開されています。左側の工場跡地の先に赤城神社の小山が見えます。昔、江戸川の洪水でこの小山が出来たという言い伝えから「流山」の地名が生まれました。裏街道は土手に上るようにして、旧流山街道に合流します。横断歩道がありませんが、街道を横切り、土手に上ってみましょう。
 土手が作られる前はここが船河岸でした。江戸時代は帆を張った高瀬舟が、明治になり外輪船の川蒸気が行き来していたところです。一日平均100艘の船が昼夜を問わず、上り下りし、銚子から利根川を経由、関宿から江戸川に入り、行徳から小名木川を経て、江戸へと荷を運んでいました。江戸へは水産物、米、醤油などを、江戸からは上方(瀬戸内海)からの下り塩、綿織り物・麻織物などが運ばれていました。旅客ももちろん乗っていたわけで、明治になり利根運河が開削され、東京―銚子間を18時間で結んでいました。
 流山橋は歩行者専用の歩道がありますので安全に渡れますが、車の交通量が多いので、道路の横断にはご注意ください。橋を渡ってからは、JR武蔵野線を左手に見ながら真っ直ぐ下っていくと三郷駅です。

吉川駅
 昼食を400年の老舗麹家でなまず料理はいかがでしょうか。詳しくは本ブログ
なまず料理の町吉川と近藤勇」をご覧ください。

Q&A
*近藤勇はなぜ流山に陣を構えたのか

 日光街道を上り、会津藩に合流しようとしたという説があります。流山街道から先は日光街道とも呼ばれ、野田、関宿、結城を通って日光に向っています。日光からは会津西街道で会津までわずかです。
近藤勇に従っていた将兵は約200名、水運業と醸造業で繁栄していた当時の流山はこれだけの人員を収容し、賄うことができる経済力があったのです。しかし流山の人々は戦火に巻き込まれるのではないかと戦々恐々としていたことでしょう。近藤勇は2週間の滞陣後、政府軍に出頭しますが、流山を戦火に巻き込むのを避けるための自首であったと、地元の人々は今でも信じています。
 この地で新撰組は四散、土方歳三は残存した隊員を率い、北関東、会津と転戦、仙台で榎本武揚の艦隊と合流、函館に渡ります。

*鉄道がなぜ流山を通らなかったか
 水運業や宿場町として栄えた地域の人々は、鉄道が通ることで経済の基盤を奪われるという思いから、鉄道建設に強く反対したため、鉄道が通らなかったのだという従来の説を「鉄道忌避伝説」とし、別の理由があったのだとする主張があります。
 明治中頃から始まった鉄道建設は、我が国の近代化を進めるために急がれましたが、当時の鉄道敷設技術が未熟であったこと、また、経済的理由から、トンネルを作らない、平坦な土地に真っ直ぐな線路を敷く、軟弱地盤を避ける、民家が密集した市街地を迂回するなどの方針で、結果として一部の地域に鉄道が通らなかったのだとする説です。
 
 本当にそれが主たる理由だったしょうか。関東地方の水運治水の歴史に詳しい千葉県立関宿城博物館に、関宿対岸の境河岸天明5年の職業人別記録が展示されています。それによると、約1,800人の住民の内、船頭や荷積み人491人、船持297人、河岸問屋・水産物を扱う浜方問屋・穀物問屋196人、旅籠・茶屋91人と、実に6割の住民が水運関係の職業に就いており、地元経済の根幹であったことが知られています。
 流山もほぼ同様の状況であっただろうことから、生計の基盤を失うことになりかねない鉄道の敷設に強く反対していたことは当然考えられることです。しかし、流山の場合は、水運業のほかに、味醂・酒などの醸造業も盛んであり、水運よりも鉄道輸送を考える地元有力者もいたでしょうから、この意見対立が誘致活動に影響したという意見もあります。
 後日談になりますが、松戸、馬橋、北小金、我孫子の四駅が設置され、鉄道は千葉県北東部を通ることになりますが、開通間もない明治41年に蒸気機関車の煙火が飛び火し、馬橋の萬満寺が焼失しています。このようなことからも人々の間で鉄道を忌避する風潮があったとしても不思議ではありません。

関連リンク:
千葉県立関宿城博物館 http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/intro.htm
馬橋・萬満寺http://www.manmanji.or.jp/
馬橋と関係深かった小林一茶http://www.mast-ishikawa.com/matudo_histoty2.html
一茶双樹記念館http://www.issasoju-leimei.com/issa/koutu/koutu.html
流山市観光協会http://www2.tbb.t-com.ne.jp/nagareyama-s.a./
総武流山電鉄http://www.g-gauge.jp/prototype/nagareyama/nagareyama.html
浮世絵に描かれた外輪蒸気船http://www.lmuse.or.jp/EVENT/tokuten-tuuunmaru1.html

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