政治は現状のままで良いのだろうか:
去る26日までの半年足らずの間に、JRの在来線で東京と熱海の間を三往復して湯治に行ってきた。前回のように3度目ともなれば、1980年頃まで1951年から慣れ親しんできた、湘南電車の両側の景色を観察できるようになっていた。そこに見えた景観は誇張して言えば異常としか言いようがない変化だった。特に、東戸塚から戸塚の間で車窓から見える大中小の低層から中層のアパートと戸建て住宅の超過密振りには驚き且つ呆れていた。
特に凄まじいというか酷いと驚愕したのが東戸塚から戸塚の間で「立錐の余地もなく」という言い方では表現しきれないのではないかとすら思わせられた。その景色に目が慣れるまでは電車が何処を走っているのか見当も付かない状態だった。兎に角見渡す限り住宅ばかりなのだ。この有様では恐らく人が多すぎて、何処に行っても人また人で息苦しいのではないかと思いながら眺めていた。
そこで、「なる程、知り合いの戸塚に住んでいた商社マンがお嬢さんの嫁ぎ先である千葉県のK市に移転した訳だ」と漸く認識できた。住宅地の開発や再開発も都市計画上は良い事なのかも知れないが、程度の問題も考慮する必要があるのではと思わせられた程のすさまじさが印象に残った。
さらに思いが至った事は「あれだけ無制限に近い状態で住宅を増やせば、東京都心で高層ビルを林立させて電力の消費量を野放図に増大させている以上に、電力等のエネルギー需要が増大して供給量不足に拍車がかかるだろうと考えていた。また、横浜市当局は生活排水の処理にも苦労するのではと、他人の疝気を気に病んでいた。我が方が藤沢市に住んでいたのは1988年春までだから、想像もしていなかったような発展と変化だと見えた。
この変化と発展も大船までで、藤沢に来るとその駅付近の景色は昔ながらの素朴な田舎都市。ここを過ぎてからその再開発振りに感嘆させられたのが辻堂の駅の北側。元はと言えば旧住友金属系列の関東特殊製鋼の工場があった場所。立派に再開発されて大規模なショッピングモールが出来ていたし、駐車場と見える建物もあった。1945年から長閑な辻堂に慣れてきた身にとって「辻堂にそれほど多くの人が住んでいたのか」と疑いたくなってしまう。
回顧談になるが、この嘗ての関東特殊製鋼では湘南のサッカー部とクラス会の仲間のS君の父親が社長で、彼は住友金属に就職し、また同じクラス会の住友君は関東特殊製鋼に就職していた。S君は私立の灘中学(現灘高)を卒業後に県立の湘南高校に転入してきた珍しい学歴。残念ながら昨年亡くなってしまったが、往年は慶応のキャプテンで、ポイントゲッターとして大活躍していた。彼は辻堂に住んでいたというのが思い出。
熱海では行く度に有り難い事に所謂「オーシャンビュー」の部屋に泊まれていた。その部屋から青と言うよりも紺色に近い水平線までの広がっている海を眺め、ご来光まで仰げたのは感動ものだった。そこで初めて気が付いた事があった。それは、昭和16年(1941年)から海水浴や砂浜野球で慣れ親しんでいた鵠沼海岸での同一平面から見えた、何となく茶色っぽい海の色とは違うというか、こういう色なのだったかと印象深かったのだ。
3軒のホテルで「なる程、矢張りこういうことになっているのか」と実感できたのが「マスコミ風にカタカナ語を使えば、宿泊部門でも食堂でもフロントデスクでも、至る所でスタッフには外国人への依存度が極めて高い事」だった。一軒だけでは、ベッドメイキングに来た屈強な若者に風呂場で再会したので「何処の国の人」と尋ねてみれば、ネパール人だったという具合。最早、彼らに依存しなければ、営業は成り立たないだろうと思わせられた。
彼らのような外国人労働者の時間給や福利厚生等がどのような仕組みに設定されているのかなどは想像も出来ない。だが、彼らが無理をしても我が国に職を求めてやって来て満足させられるだけの額を支払う事を、現在の我が国の経済情勢が易々と許すのだろうかと不安になる。彼らは、他の業種か他国の賃金に魅力を感じれば、さっさと転職して行ってしまうのではないか。
それどころか、我が国を見切って来なくなる事までも想定しておく必要がありはしないのか。何度か湯治に出かけホテルに泊まり、JRの在来線を利用して、物思わせられた次第だった。それは「政治という事は、収支報告書不記載で資金を作ったり、刷新したり、政権維持の為に派閥を解散する事も重要な仕事かも知れないが、こういう現場にまで細かく神経を使って全ての国民が幸せな日常を過ごせるように腐心するのも重要な仕事なのではないか」なのだ。
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