新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

海外での我が経験を回顧すれば

2022-08-07 15:47:37 | コラム
あれから52年経っていたのだった:

気が付いてみれば、1970年7月7日に何故か伊丹空港から台北に向かって怖々出発し、松山空港の荷物の税関検査でスーツケースを振り回されて膝がガクガクした経験から52年も経っていたのだった。この東南アジア市場調査のための人生初の海外出張が、その後2年の1972年8月9日にアメリカの会社に転出してジョージア州アトランタに向かう、初めてのアメリカ行きの切掛けになるとは、本当に夢にも思っていなかった。

この機会から、即ちあれから52年も経ってしまった2022年になって、1969年当時には全く夢想すらしていなかった海外を経験させて貰え、その2年後には「行きたい」とも「行ける」とも「行こう」とも考えていなかったアメリカの会社への転出に伴って、アメリカと日本を頻繁に往復して仕事をする生活に結びついた辺りを回顧してみようと思うのだ。

1972年の8月のアメリカ出張から後の1994年1月末の引退までの21年5ヶ月は、陳腐な表現を用いれば「永いようで短い年月だった」となる。あの1970年の東南アジア市場調査の出張も、アメリカの会社への転身も、嘘偽りなく全て自分から望んで積極的に仕掛けたことではなかった。この点はこれまでに何度も述べてきたことで、「此の世とはこういうものか」と驚かされた偶然の積み重ねがもたらした機会と、予想もしていなかったような運命が私に向かって押し寄せてきたので、それを「それならば、限りある身に何が出来るのかを試してみよう」と受け入れた結果だったのだ。

終戦後間もなくからGHQの秘書だった方に英語で話すことを厳しく教え込まれたお陰で、英語での意志疎通には高校生になった頃から事欠かないようにはなっていた。だが、1955年の大学卒業を控えて、就職先にアメリカの会社を選ぼうとは全く考えていなかったし、英語を使わねばならぬ職業は敬遠しようと決めていた。それは、その頃のアメリカの企業では日本人がどのように扱われるかを在学中のアルバイト等の経験から承知していたためだった。

新卒で雇って頂いた会社では英語とは何の関係もない、国内市場向けの印刷用紙等の販売を担当していた。私は会社には英語が解ることなど報告していなかった。そこに訪れたのが、偶然の積み重ねで私が英語で話せることが上層部に知れて、東南アジア市場新酒を企画して経営陣から「市場調査」の主張を命じられたのだった。この辺りが予期せざる運命の流れの始まりだった。

その出張が結果的には、就職運動中に避けていたアメリカの会社への転出の伏線となったのだから、運命の流れや人生の先行等は予想もしなかったような展開をするものだともつくづく悟らされたのだった。しかも、育てて頂いた日本の会社を辞めるのに半年以上もかかるという困難な事態になって大変な苦労をした。

そこで、もう二度とあのような転職の苦労はすまいと決めていたにも拘わらず、転進した先の元々はアメリカ東海岸の会社であるMead Corp.で2年弱勤務した後で、同じ紙パルプ産業界のアメリカ西北部のWeyerhaeuserに再度の転進をすることになろうとは、ここでも全く予想すらしていなかった。

その最初の転進の際には「アメリカとは我が国とは全く異なる文化の国であること」や「同じように会社と言っていても、アメリカの会社と我が国の会社の間には比較しようもないほどの文化及び思考体系に違いがある」などとは考えておらず、日本の紙パルプ産業界で習い覚えた知識と経験を活かして、何としても家族を養っていけるように一生懸命に働こう。そうすれば自ずと道は開けるだろう」と、浅はかにも単純に(naïveでも良いくらいのことだ)と考えていた。

その「異文化の世界であること」を痛感させられ、その異文化の谷間に落ち込んで何度か深刻に悩まされるようになるのだが、「何処がどのように違うのか。その違いをどうすれば乗り越えて、彼らの中に同化し且つ彼らの一員として受け入れられて、彼らと気脈を通じて仕事が出来るようになるか」を知るまでに、気が付けば10年近くも過ぎていたのだった。この「彼らの一員」という表現が容易に理解されないようだが、噛み砕いて言えば「アメリカ人の一人として」という意味である。

そこに到達するまでには「上司や本部内の同僚や、内勤の女性たちに本当に受け入れられる為に必須だったのが英語力だったのだ」と学ぶという過程を経ていた。彼らの中で共に仕事を進めていくためには、英語などは出来て当たり前で、上手いか下手かなどは評価の材料にもならないのだ。英語が彼ら並みに話せて尚且つ解るようになって初めて「文化の相異」を乗り越えられるのである。

その「英語力とは」は読み・書き・会話が出来るだけでは何の役にも立たず、文化の相異を十分に把握して、彼らアメリカ人の行動基準と思考体系に合わせられるような次元に達していないことには、会議などでのpresentationや意見の発表などで彼らを理解させらないことになってしまうのだ。

私は気が付かぬ間に「上司や同僚の家に呼ばれ、怖い奥方たちと会食するとか、彼らの子供たちと話し合う機会を得て、アメリカの上層階級にいる人たちとは如何なる人種か」が徐々に解るようにアメリカ慣れしていったのだった。この経験は貴重だった。

即ち、敢えて言えば「この経験は駐在するとか留学することでは容易に体験できないだろうこと」なのである。その意味は「お互いにそこまで解り合って、理解し合って協力してこそ、初めて難しい対日輸出を思うように推進する組織の一員となり得るのだ」ということだと信じている。実際に我が事業部もその一角を担っていたのだが、1990年代初期にはWeyerhaeuserはアメリカの数ある会社の中で対日輸出額がBoeing社に次いで第2位の座にあったのだった。

52年を振り返ってみれば「日本という世界に希な品質に対して厳格であり、如何なる些細な血管でも許してくれない価格競争が激しい難しい市場を相手にすれば、成功を勝ち取るためには世界の何処に行っても通用する高度な品質の次元に達した製品を作り、その国独特の文化と市場の特性を知って、それに対応できるようにすることが成功への王道である」と学び続けた21年余りだった。この経験は50年経っても100年経っても忘れることはないだろう。