新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

デユーク・エリントン楽団の思い出

2021-06-07 08:53:32 | コラム
1972年8月にニューヨークで:

昨6日に採り上げた「美空ひばりとデユーク・エリントン」の言うなれば続編である。私は1972年に偶然の連続でアメリカの大手紙パルプメーカーの一角を占めるMead Corp.に転進して、トレーニングの為に生まれて初めてアメリカ合衆国に出張の機会を得た。そして、ジョージア州アトランタ、アラバマ州フェニックス、オハイオ州デイトンを経て、コネテイカット州グリニッチにあるパルプの本部を目指して、先ずニューヨーク市に入った。NYを経由するとにはさして関心がなかったが、気が付けば副社長と営業部長に市内を案内して貰っていた。

そこで、今となっては記憶は定かではないが昼食にマンハッタンのロックフェラーセンター65階だったと思うレインボールームに上がっていった。すると、当日はデユーク・エリントン(Duke Ellington)が出ていたのだった。

副社長は興奮して「この歳になるまで一度もエリントンの生演奏を聴いていない。何としてもテーブルを確保しよう」と言って、入り口に立っていたボーイ(あるいはmaître dだったか)に「私はバンドスタンドの前のテーブルを予約してあったアラン某だが」と言ってサッと5ドル札を渡した。すると彼は「確かに承っておりました」と最前列のテーブルに案内された。「凄い」と思った。

その渡し方の格好良さに「アメリカにおけるテイップ(カタカナ語排斥論者としてはtipを「チップ」とする表記は採れない。“chip”は木材の破片である)の効用の勉強が出来たのだった。あの当時の5ドルは現在ならば何円に相当するだろうか。今やホテルのページボーイでも5ドルでも少ないと聞いている時代なのだから。

程なくバンドがエリントンの入場曲“Take the A Train“の演奏を開始すると、デユークがテーブル席の間を例によって踊りながら登場して指揮し始めた。何とも言いようがない迫力がある演奏には圧倒され感動した。実は、フルバンドのジャズにはさして関心がなかったのだが、生演奏を聴けば話は全く別物だった。テナーサックスのポール・ゴンザルベスなどは演奏開始前までは泥酔しているかのように見えたが、いざ立ち上がってソロを取れば堂々たる演奏だったのも印象的だった。

49年も前のことで少し記憶は曖昧だが、確かデユークが「今日は日本からヒバリ・ミソラが来ている」と紹介すると、遙か遠くの席で女性が立ち上がって挨拶をしていたのが見えた。美空ひばりに余り関心がなかった私は、それほど感動しなかったのだが、今にして思えば大変な経験だったのだ。ひばりのファンだったらサインを貰いに行っていたろう。これが初めてのニューヨークでの貴重な経験だったが、正直に言ってもっと感動したことがあった。

それは、偶々出会った道路工事の現場で作業していた白人たちが、チャンとした英語で話していたことだった。「流石にアメリカだ。道路工事の人たちも英語で話すのだ」と、お上りさんの私は無意味に感激していたのだった。回顧談をするとは、私も矢張り老化したなと痛感している次第だ。