新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月1日 その2 我が国の英語教育を考える

2019-08-01 16:11:19 | コラム
私の英語教育論:

私は物書きの真似事を始めたのは1990年の春からでした。その頃の紙パルプ業界の専門誌に4年間連載しましたエッセーで拙著「アメリカ人は英語がうまい」は構成されています。その頃には「我が国の英語教育はあれでも良いのだ」と書いていましたし、現在のように真っ向から批判し且つ改革すべしなどのような、万人に支持されそうもない事は言おうとは考えていませんでした。

それが1994年1月末でW社をリタイアしてからは一気に変わって、真っ向から批判もするし、大声で改善すべしと言うようになりました。その主たる根拠は在職中に多くの我が国の一流企業の幹部社員でも「英語で思うように言いたい事を表現出来てないし、外国人を説得出来るまでの英語力が身に付いておらず、英語による論旨の組み立て方も解っていないのは、ひとえに我が国の英語教育の至らなさにある」と分析していたからでした。

私の改革論の原点とも言うべき出来事は、いつ何処で聞いたか今となっては記憶がありませんが、ある英語教育の討論会で「中学から大学までを含めれば8年も勉強しても英語が話せるようにならないのは何故か」という質問に対して立ち上がった勇敢な高校の女性教師が「何を仰いますか。我々は英語を話せるようにしようとの目的で教えているのではありません。教科の一つとして生徒たちに5段階での優劣を付ける為に教えているのです」と答えたのには唸らされました、「全くその通りだろう」と。

私は「英語が良く解る事」や「英語をnative speakerのように話せる事」や「外国に行って働いても不自由しないで“I know how to express myself in English very well.”の段階に到達する事」はごく一部の限られた人にとって必要なだけであると信じております。かく申す私は偶然の積み重ねで、39歳でアメリカの会社の日本駐在員の仕事に転進しました。そこでは英語が出来ることなどは年度毎の査定の対象にはならない事で、そういう所で働く事を目指す人には英語が出来る事は最低限の必須の能力だと思っております。

何年前でしたか、政府の教育審議会だったかの委員の通産省の局長だった方が「国際化の時代にあって小学校から英語を教えて国際人を数多く育てる云々」という発表をされたのを聞いた事がありました。終わった後で帰路が途中まで一緒だった元新日鐵副社長のK氏が「万人に強制すべきことではないでしょう」と否定的に言われたので躊躇う事なく賛成致しました。

私は極論だと言われる事を覚悟で言えば「問題は誰が何処を目指して、何の為に英語を勉強するのか」だと信じております。私は我が国では英語を介在させずとも如何なる事でも学べる環境が整った世界にも希な先進国であると思っております。ですから、万人が必要もない英語無理をして勉強しないでも済むのだ」と信じております。

ここで告白しますと、私が本格的にアメリカの会社に入って彼らと共に働いてあらためて「これは大変だ。十分に注意すべきだ」と思い知った事がありました。それはアメリカのように厳然たる階級制度と言うかマスコミ的に言う「差別がある社会」では、国を支配するごく少数の人数で構成された階層では言葉に対して極めて厳格であった事でした。我が国でも一部上場企業でもそういう点では厳格なものがあると承知しておりましたが、アメリカの厳しさというか煩さはそれ以上のものがあると知りました。

大学では千葉勉教授に「文法を間違えるとか誤った綴りをするようでは、無教養な下層階級に属すると看做されるから十分に心するように」と厳しく教えられました。実際に1975年時点でW社東京に副社長補佐だったワシントン大学のMBAのJ氏には「貴方方が提出しする毎月の Market reportがいつ何時CEOにまで上がるかは解らないのだ。その報告書の文法に誤りがあってはらないので、私が出来る限りチェックしているのだ」と聞かされて「なるほど。アメリカの一流企業ではそういう考え方をするのか」と納得したのでした。

実際に我々がJ氏に提出した原稿は加筆訂正されて真っ赤になって返却され、何度も書き直していたのでした。私は1年間に訂正箇所無しで原稿が帰って来た事が一度あっただけでした。

こういう会社で本社機構に属する管理職とそれ以上に地位にある人たちは概ねアッパーミドル以上に属する家柄の出身者なのです。そういう事情がありますから、その時刻の言葉に対する厳格さは英語の本家であるUKを凌ぐものがあるとも聞かされました。

私が転進し勤務した2社はそういう格式高いアメリカの紙パルプ・林産物業界を代表するような会社でしたので、自国語即ち英語についての厳しさは予想以上のものがありました。それには何とか付いていけるようにはなりましたが、私は万人がそのような次元を目指すような英語が出来るようになる必要などないと言って誤りではないと思います。

だが、そうかと言って文法を無視し、綴りを間違えた文章を書くとか、“you know”を多発してしまうような話し方をしてしまっては、私がアメリカの全人口の5%もいないだろうと思う支配階層の人たちには相手にされないでしょう。だが、普通の日本人がそういうアッパーミドルとそれ以上階層の人たちと膝つき合わせて語り合う機会が訪れる確率は限りなくゼロに近いでしょう。

ではあっても、そこかそこに近い次元を目指して勉強しておかないと、志を立てて留学するか駐在員で出ていった場合などには、彼らアメリカ人が口に出して言わないだけで「軽蔑される事は必定だ」と言えるでしょう。

私が経験した例を挙げれば、夫婦揃ってMBAで共にコンサルティング事務所を開いていた元の上司の一人のW氏夫妻と夕食をした際に奥方が「今日会った某氏は“Me, too.”という表現を使ったのには幻滅した」と言いました。それを聞いたW氏は「そうか、彼がそんな言葉を使うとは困ったね」と言って嘆きました。こういうことがあって、あらためて「そういう英語に対する厳格さがある階層に住んでいる人たちが支配している国だ」と確認した次第でした。アメリカとはそういう人たちが支配する国だとご理解願いたいのです。

だが、我が国に「アメリカとはそういう点が極めて厳格で、言葉遣いは言うに及ばず、文法も単語の綴りも間違えてはならない世界があるのだ」と言って教えられる英語教師がどれほどいるでしょか。Swearwordとslangの区別が解っている先生がどれほどおられるのでしょうか。また、native speakerが語るのを聞いて「アッパーミドルか、トランプ様の支持層であるプーアホワイト階層の者か」の判断が出来るのでしょうか。

それに英連邦には独特のLondon cockneyに代表されるような訛りがあります。そんな英語を覚えてはならないのです。それだけに止まらず、日常的な会話でも文章にでも慣用句もあれば口語体も頻繁に使われていると心得ているか」という問題もあります。

それですから、私は我が国の学校教育のように単語を覚えるのではなく「言葉の意味と使い方は流れの中で覚えよう」と言って「音読・暗記・暗唱」で勉強しようと唱えているのです。そこに加えて必要な事は「正しい英語を話す人の真似をしよう」であって、彼らが使う表現を聞いて「なるほど。こういう時にはこう言えば良いのか」と記憶しておいて、「これはこういう時にこそ使おう」と思って、しまっておいた引き出しから出して使ってみる事でしょう。私にとって英語は「獲得形質」ですから、現場にあっては「真似する事」は重要な要素でした。告白すれば、私はアメリカに出張する度にnative speakerの中に入って数時間経てば頭の中が英語に切り替わって淀みなく英語が出てくるようになりました。即ち、彼らに牽引されて頭の中の言語のギアが切り替わって英語になってくるのでした。

何だか、教育論ではなくなって「英語の学び方論」になってしまいました。要するに自分からこういう風にやっていこうという姿勢になることが必要なのですが、周囲に真似をしても良いお手本が沢山ある事も進歩の重要な要素になります。という事は「自分からその気にならない事には前に進まない」とも言えるでしょう。こういうことを教えてくれる教師が沢山現れると良いのです。だが、現在の英語の教え方を小学校にまで降ろしたのでは改革にはならないし、アメリカの支配階層と真っ向から意見の交換が出来る次元には到達しないのではと危惧するのです。

今回は昨日大和 勇様にお答えした一文を加筆訂正したものです。


私の経験的英語論

2019-08-01 08:14:05 | コラム
英語あれやこれや:

昨7月31日は英語関連のニュースが2件あった。その為に他の事を採り上げようと思っていたのを止めて、この二つを考えて見る事にした。

楽天の社内の公用語を英語に:
随分前にこの件が大きく報道されていた記憶がある。31日の報道では楽天のこの公用語推進の責任者が、未だ十分に浸透しない原因に社員たちの「語彙不足」を挙げていたので「それは違うでしょう」と言いたくなった。これまでに何度も採り上げてきた事で、「我が国の英語教育の大きくて太い柱になっている単語の知識を追いかけていては、何時まで経っても自由自在に自分の思うことを英語で表現できることに繋がらない」を地で行っているような状態だと思った。

私の持論は簡単な事で「単語という部品を思いつくままにバラバラに並べたところで完成された機械にはならない」のであって、飽くまでも流れの中で言葉の使い方を覚えていくべきだ」という主張なのである。別な言い方をすればサッカーで言う「セットプレー」で得点しようとするのではなく「キチンとフォーメーション」(=形)を作って、攻撃に流れの中で点が取れるようにしようとも言えるのだ。実は、私は中学でも高校でも「単語帳」や「単語カード」を作った事は一度もなかった。でも話せるようになった。何故だろう。

それはアメリカ人の中に入って社内の報告書を作っても、同僚たちと日常的な会話をしていても、そこに後から後から出てくるのが「慣用句」(=idiomatic expression)であり「口語体」(=colloquialism)の表現が圧倒的に多いのである。特に慣用句では一つ一つの単語の意味を承知していても、それらが構成する意味は元の単語の和訳とはかけ離れたものなので、「それって何のこと?」と当惑させられるのだ。ここでも別な言い方をすれば「そんなに易しい単語ばかり使って、どうしてそんなに難しい事を表現出来てしまうのか」となるのである。

少しだけ例文を挙げておこう。“handwriting on the wall”は「悪いお知らせ」という意味で使われている。即ち、He saw a handwriting on the wall. というように使われている。“It’s a piece of cake.”と言うと「簡単にできるような事」となって、両方とも使われている単語の意味とはかけ離れている。中々「なるほど」という例文が浮かんでこないが“He burnt his bridge.”となると「退路を断って進む」と言いたい時に使われている。言いたい事は「これでは単語の知識が豊富でも余り役に立たない」とお解り願えると希望的に考えている。

口語体」の例も挙げておこう。I will take a rain check. と言うと「今回のお誘いをお断りして次の機会に」という意味になる。I will sleep on it. だと「一晩考えさせて」なのである。Hang in there.は「頑張れ」なのであって中国語の「加油」と同じ事。実は正直に言って、私はここまで来ると慣用句と口語体の区別が解らなくなってしまう。だが、何れにせよ、それぞれのphraseを構成している単語に意味を承知していても役に立たないとご理解願いたいのだ。これら以外に What is this going on here? と怒鳴られた場面に出会った事があったが「ここで一体全体何をやっているのか」と強硬な苦情を言われていたのだ。

ここまででお気付き願えると良いのだが、実際にアメリカ人の中に入っていると所謂「難しい単語」が出てくる事の方が希で、上記のような簡単な言葉の積み重ねであり、単語をバラで覚えていても余り効果的ではないのだ。以前にも挙げた例で、上司に面倒くさい事をやってこいと命じられて気が進まず Let me try to see what I can do about it. と答えたところ「何処まで出来るか試してみましょう」とは何事かと叱責され I’ll be sure to get the job done. と言えと来た。「必ずやり遂げます」はこのように言うのだ。難しい内容のようだが、易しい単語ばかりで言えるのだ。

学力テスト:
結果では中学3年でも話す事の点数が全国的に低かったと出たと報じられていた。それはそうでしょう。何度か指摘した事で、これまでの教育の仕方を多少デイジタル化して教えても、話す能力を上げる事には結びつけるのは至難の業だと思っていた。それに教える先生方はこれまでの教育の仕方(され方?)で育ってこられたのだから、今更何処かの要求に合わせて大きく変身する事は難しいのだと思う。特にこれまでの間に英語に特化して勉強してこられなかった小学校の先生方に「会話」を教えよというのは無理筋だと思う。

では、どうすれば良いのかと訊かれても、私が改革案を云々する立場にはないと思う。言うなれば今となっては None of my business. なのである。Mind your own business. などという言い方もある。こういう表現を日本語に訳そうとする事自体が無意味で、「こういう場合にはこう言う表現で対応するのか」と覚えていく事が肝腎なのだと思う。