石井金陵(いしいきんりょう、1842~1926)は、明治から大正時代にかけての日本画家だ。名は、俊という。岡山市の生まれ。
(続く)
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211の34『岡山の今昔』岡山人(20世紀、上島鳳山)
上島鳳山(うえしまほうざん、1875-1920)は、日本画家だ。
小田郡笠岡村(現在の笠岡市)の生まれ。本名は、寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。家は、刀鍛冶をしていたのが、のちに理化学器械の製造にたづさわる。
円山(まるやま)派の人物・花鳥・動物画を能くする。
大阪の円山派の画家・木村貫山に学ぶ。西山完瑛、渡辺祥益にも師事する。1900年(明治33年)には、大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継ぐ。絵に邁進するも、なかなかに芽が出なかったようだ。
1912年(大正元年)には、絵画運動「大正美術会」の設立に、北野恒富らと参加する。大阪の青年画家によるものだという。画房を鳳鳴画屋と称す。
ちなみに、2016.5.27 付けのサンケイ新聞には、こうある。 「「上島鳳山と近代大阪の画家たち」展 京都で28日開幕
上島鳳山の生誕140年を記念して開催される特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」=27日午後、京都市左京区の泉屋博古館(志儀駒貴撮影)
明治から大正にかけて大阪で美人画などを描いた画家、上島鳳山(ほうざん)の生誕140年を記念し、28日から特別展「上島鳳山と近代大阪の画家たち」(産経新聞社など主催)が京都市左京区の泉屋(せんおく)博古館で開催されるのを前に27日、内覧会が行われた。
鳳山は岡山県出身で、大阪で日本画を学んだ。住友家をはじめとする大阪の富豪の支援を受けて制作を行い、独特の雰囲気をもつ美人画を数多く描いた。
特別展では、代表作「十二月美人図」全12幅や初公開の「西王母之図」をはじめ、同時代に大阪で活躍した北野恒富、岡本大更らの作品約50点を展示する。
特別展を企画した泉屋博古館分館(東京)の野地耕一郎分館長は「鳳山の美人画は東京や京都の画壇の作品に比べ、あでやかで写実性に富む。この展覧会が大阪画壇を見直すきっかけになれば」と話していた。」
さらに、能や狂言についての造詣も深いことで、かなりに知られる。
(続く)
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160の2『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、宇喜多秀家)
宇喜多秀家(うきたひでいえ、1572~1655)は、戦国末期から安土桃山にかけての有力武将であった。備前岡山が根拠地。
この秀家だが、秀吉から五大老の待遇を得ていた。しかし、国元での財政逼迫には関心が薄かった。
それというのも、進歩派の譜代重臣や新参者の重臣らは、収入を増やそうと新たな検地を行うなど、徴税を行おうという。これに対し、保守派は慎重論をいう。
結局、君主秀家の意向が働く形で財政立て直しがなおざりにされ、反発した保守派のかなり(全体の3分の1とも)が反体制派に転じたと伝わる。また、保守派は日蓮宗を信仰、進歩派はキリスト教信者が多かったことも、両者の対立に油を注いだらしい。
この争いは、秀吉存命中は抑えられていたものの、その後は爆発、劣勢となった保守派の少なからざる部分が離反し、軍事力も大きく後退を余儀なくされる。
やがての関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の副将。豊臣を「裏切れなかった」のであろうが、自陣は壊滅してしまう。だが、敗戦でからくも戦場を脱出する。少ない家臣とともに伊吹山に潜んでいるところを、落武者狩りに見つかるも、何とか窮地を脱す。豪姫と再会して、島津家を頼る。
島津家が安堵されてからは、前田利長にも赦免を家康に願い出てもらう。家康は、仕方なく助命を約束する。家康の前に出頭して謝罪する。
1606年(慶長11年)には、八丈島に流される。息子や乳母、家来などを連れた13人にて、海を渡る。この助命にあっては、かつて豊臣秀吉が彼を猶子とし、秀吉の養女であった前田利家の娘の豪姫を妻としていたことも考慮されたようだ。
1634年(寛永11年)の豪姫の死後は、加賀の前田家康から、隔年ながら米や衣類、薬品、金子35両が送られる。その援助は、一族が赦免される明治元年(1868年)まで続く。
(続く)
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176の3『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)
岡本豊彦(おかもととよひこ、1773~1845)は、画家。備中の窪屋郡(現在の倉敷)の旧家、岡本家の生まれ。
十代の半ば頃から、倉敷の玉島に住んでいた南画家の黒田綾山に学ぶ。やがて、京に上り、「京都四条派」の呉春の画塾に入る。
それからは、頭角を現していく。文政期の東本願寺再建では、小寝殿の襖絵などを担当する。師匠の呉春の没後には、画塾を開いて多くの門人を育てていく。
呉春風の花鳥画、人物画はもちろん、南画風を加味して山水画をよくする。代表作の蓬莱山水図には、特に山水を能くした、彼の息遣いが漂うかのよう。静かにして、閑(しづか)なりしか。「呉春没後の四条派を盛り立てたのは、呉春の弟景文とならびこの豊彦であった」と伝わる。弟子の育成にも力をそそぐ。門下に塩川文麟、柴田是真らがいるとのこと。
(続く)
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265の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、斎藤真一)
斎藤真一(さいとう しんいち、1922 ~1994)は、異色の画風で知られる。児島郡(現在の倉敷市)の生まれ。
1948年には、東京美術学校を卒業する。そして、静岡第一中学校の教諭となる。第4回の日展に初入選を果たす。1950年には、岡山県立天城高校の非常勤の教師となる。やがての1959年には、フランスに留学する、現地では藤田嗣治らと親交を結ぶ。1953年には、移転して、静岡県立伊東高校の教師となる。
そして迎えた1962年には、描きたいものを見つけたようだ。「瞽女(ごぜ)」にひかれる。それからは、盲目の女性を沢山描く。彼女らは、津軽地方の三味線を弾き語る。あの高橋竹山のような激しい曲調が。やがて、18年間勤めた伊東高校を退職し、画業に打ち込む。
さらに、関心は瞽女から明治期の遊廓の女性へと題材は深まっていく。母の知り合いで同郷の倉敷出身の女性が花魁だったことが、その扉を開いたという。
1985年には、「明治吉原細見記」と「絵草子吉原炎上」を発表する。これら2作が、五社英雄監督の映画「吉原炎上」(東映株式会社)の原作となり、一躍有名画家の仲間入りをする。これらに関連しての「西津軽の街道」(1988)には、厳しい自然での掟のようなものを感じる。
(続く)
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192の4の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴田義薫)
柴田義薫(しばたぎとう、1780~1819)は、備前国邑久郡尻海村(現在の瀬戸内市邑久町尻海)の生まれ。家業は、廻船業で、豪商の「奥屋」という。その豪商の次男。名は義董。やがて、父が他界する。
義董が15歳頃の時に、彼は京都にいく。生活には、実家の援助があったろう。上洛後のことは、絵に決まっていたようだ。「四条派」の呉春の門人となり、精進する。その流れの中でも、目指すのは何であったのだろうか。
文化年間(1804-1818)には、岡本豊彦・松村景文と並ぶ高弟と評価されるまでになっていた。洛中の人々も、「花鳥は景文、山水は豊彦」と並べて「人物は義董」と表す。その筆致の精妙さからか、だれもがやがての大成を期待する。身を削るように働いたからであろうか、体がついていきがたかったようであり、いかにも残念であったのではないか。
(続く)
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243『岡山の今昔』岡山人(20世紀、西東三鬼)
西東三鬼(さいとうさんき、1900~1962)は、俳人として、この分野においては、「あまねく」といっていいほどに知られる。本名は斎藤敬直にして、当時の苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)の生まれ。1915年(大正14年)に、津山中学に入学する。3年後には、母がスペイン風邪で死ぬ。東京の長男を頼り、上京する。青山学院中等部から高等部へ。いろいろあったわけだ
1925年(大正14年)には、日本歯科医院科専門学校を卒業する。何を思ったのか、シンガポールに渡り、歯科医として3年を過ごす。日本に戻り、東京の大森(現在の大田区大森)で歯科医院を営む。1932年(昭和7年)には、埼玉県の朝霞総合診療所の歯科部長になる。さらに翌年には、東京に移り、神田の共立病院歯科部長になる。
ところが、この同じ年、患者から俳句を勧められたという。そして、一念発起したというから、驚く。
それからは、まるで堰を切ったように、次から次へと、それまでの主流とは大いに違った俳句を発表していく。1934年(昭和9年)には、俳句雑誌「走馬灯」の同人となるほか、他の雑誌の同人にもどんどん売り込んでいく。1940年には、第一句集「旗」をつくる。
ところが、この年、京都大学俳句事件が起きる。三鬼も特別高等警察で検挙されてしまう。俳句作りを当分やめるということで、起訴猶予となる。1942年(昭和17年)には、神戸へと移る。
(中略)
それからかなりの時が移っての2018年、新聞に次の記事が載った。
「西東三鬼の文庫版全句集が刊行。〈水枕ガバリと寒い海がある〉。新興俳句運動の代表的作家として活躍した西東三鬼(1900~62年)。その句業を総覧できる「西東三鬼全句集」が角川ソフィア文庫から刊行された。花鳥諷詠(かちょうふうえい)から離れた大胆不敵な作風で、俳人のみならず異分野の創作者からも支持されている。多様化する現代俳句の源泉の一つに手軽に触れられるようになった。三鬼は戦争を主題とする無季俳句を精力的に発表し、戦中の40・・・」
(2018/3/15付日本経済新聞)
ここで今少し、折々にまとめられての句集に仲良く並んでいる中から、幾つかをお目にかけよう。
「おそるべき君等の一部夏来る」(1948)
「中年や遠くみのれる夜の桃」(1948)
「犬の蚤(のみ)寒き砂丘に跳び出せり」(1951)
→ここに「蚤」とは、自身のことであるらしい。
「秋の暮れ大魚の骨を海が引く」(1962)
(続く)
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176の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、丸川松陰)
丸川松陰(まるかわしょういん、1758~1831)は、倉敷の西阿地の生まれ。そこには、新見藩の飛び地があり、家業は庄屋の代わりをしていた。家柄としては、元は新見藩士としてあったのが、父はその仕籍を離れていたという。
幼い頃は、あまりはっきりしないものの、貧困ということではなかったのではないか。
母親が我が子の教育に熱心であったらしい。15歳で総社の亀山如水の塾に入って、儒学を学ぶ。主に、朱子学という、親孝行や主君への忠節を重んじる封建的な流派を学んだのではないか。そればかりか、22歳で讃岐の小池薫陵の下で医学を学ぶ。
父親は、この地域が不作続きであったため、周辺の村代表として水の訴訟に関係して江戸に6年もの間滞在するなど、家庭を顧みる余裕がなかった。
30歳の時には、両親を亡くす。それから、33歳になると、大坂(現在の大阪)に出て中井竹山の懐徳書院に入門する。同門の佐藤一斎とともに、頭角を表す。
やがて、新見藩(5代の関長誠(せきながのぶ))の藩校「思誠館」に招かれる。「督学」という最高待遇であった。なお、これに至るには、時の老中の松平定信から、江戸の昌平学問所に来ないかと誘われていたのを辞退してのことであったという。
それからは、多くの人材を育てていく。山田方谷(1805~1877)もそのひとりで、5歳の時に松陰の門下に入り、山田はここで10年間学ぶ。
(続く)
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