192の4の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴田義薫)
柴田義薫(しばたぎとう、1780~1819)は、備前国邑久郡尻海村(現在の瀬戸内市邑久町尻海)の生まれ。家業は、廻船業で、豪商の「奥屋」という。その豪商の次男。名は義董。やがて、父が他界する。
義董が15歳頃の時に、彼は京都にいく。生活には、実家の援助があったろう。上洛後のことは、絵に決まっていたようだ。「四条派」の呉春の門人となり、精進する。その流れの中でも、目指すのは何であったのだろうか。
文化年間(1804-1818)には、岡本豊彦・松村景文と並ぶ高弟と評価されるまでになっていた。洛中の人々も、「花鳥は景文、山水は豊彦」と並べて「人物は義董」と表す。その筆致の精妙さからか、だれもがやがての大成を期待する。身を削るように働いたからであろうか、体がついていきがたかったようであり、いかにも残念であったのではないか。
(続く)
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