64の3『岡山の今昔』水島空襲(1945)
2018年の夏であったか、岡山市立図書館に戦争展示コーナーがしつらえてあった。そこには、米陸軍航空軍司令部A-3が作成していた『(秘)小工業都市地域への攻撃』という文書(一部)が紹介されていた。これの英文コピーには、日本語での解説が付されていた。しかも、しかるべき起案・決裁文書の体裁をなしており、このことが事実であるとすれば、驚くべき当局の計画性だといえよう。
しかして、この文面には、人口の観点から攻撃の優先順位を検討した上での記述であろうか、攻撃対象となる都市の数は、東京を筆頭に180におよぶ。これによると、京都や奈良それに金沢なども空爆の対象になっていたとのこと。ちなみに、その中での岡山はNo.31に、No.159に至っては倉敷がノミネートされていた。
そして迎えた1945年(昭和20年)6月、岡山(6月29日)と、倉敷の水島(6月22日)に相次いで、米軍による空襲があった。ちなみに、岡山県下での最初は、4月8日の玉野市への爆撃であり、死者8名。
水島の方の主な標的は、三菱重工業の航空機製作所(1942~)であり、完全に破壊された。具体的には、B29の編隊100~130機が来襲し、約3時に渡り攻撃、「航空機数十機を焼失、鉄骨の工場と格納庫20数棟が灰塵(かいじん)と化」(平塚柾緒編著「日本空襲の全貌」洋泉社、2015)したという。第一号の戦闘機(海軍の「一式陸上攻撃機」か)が完成した1944年(昭和19年)から、わずか1年後の出来事であった。
水島の方の主な標的は、三菱重工業の航空機製作所(1942~)であり、完全に破壊された。具体的には、B29の編隊100~130機が来襲し、約3時に渡り攻撃、「航空機数十機を焼失、鉄骨の工場と格納庫20数棟が灰塵(かいじん)と化」(平塚柾緒編著「日本空襲の全貌」洋泉社、2015)したという。第一号の戦闘機(海軍の「一式陸上攻撃機」か)が完成した1944年(昭和19年)から、わずか1年後の出来事であった。
そうなったのには、この工場が軍部からの軍用機増産の要請を受けつくられた。一方で、名古屋工場の生産能力の限界もあったため、三菱資本は、国防誘致に熱心な地元の期待に応える形で、新鋭工場の建設を決意する。
その敷地は、十分なものであったろう。旧東高梁川河口の地先海面を埋め立てて造成した土地に、機体工場のほか、飛行場もつくられる。それも、「その建設用地は農地化されていた廃川跡地を強制買収することによってまかなわれた」(平岡昭利編「中国・四国、地図で読む百年」古今書院、1999)という。ほかにも、労働者の社宅や寮、病院といった福利厚生施設も必要であったのだから。
(続く)
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