◻️64の3『岡山の今昔』水島空襲(1945)

2019-10-01 22:12:18 | Weblog
64の3『岡山の今昔』水島空襲(1945)

 2018年の夏であったか、岡山市立図書館に戦争展示コーナーがしつらえてあった。そこには、米陸軍航空軍司令部A-3が作成していた『(秘)小工業都市地域への攻撃』という文書(一部)が紹介されていた。これの英文コピーには、日本語での解説が付されていた。しかも、しかるべき起案・決裁文書の体裁をなしており、このことが事実であるとすれば、驚くべき当局の計画性だといえよう。
 しかして、この文面には、人口の観点から攻撃の優先順位を検討した上での記述であろうか、攻撃対象となる都市の数は、東京を筆頭に180におよぶ。これによると、京都や奈良それに金沢なども空爆の対象になっていたとのこと。ちなみに、その中での岡山はNo.31に、No.159に至っては倉敷がノミネートされていた。
 そして迎えた1945年(昭和20年)6月、岡山(6月29日)と、倉敷の水島(6月22日)に相次いで、米軍による空襲があった。ちなみに、岡山県下での最初は、4月8日の玉野市への爆撃であり、死者8名。
    水島の方の主な標的は、三菱重工業の航空機製作所(1942~)であり、完全に破壊された。具体的には、B29の編隊100~130機が来襲し、約3時に渡り攻撃、「航空機数十機を焼失、鉄骨の工場と格納庫20数棟が灰塵(かいじん)と化」(平塚柾緒編著「日本空襲の全貌」洋泉社、2015)したという。第一号の戦闘機(海軍の「一式陸上攻撃機」か)が完成した1944年(昭和19年)から、わずか1年後の出来事であった。
 そうなったのには、この工場が軍部からの軍用機増産の要請を受けつくられた。一方で、名古屋工場の生産能力の限界もあったため、三菱資本は、国防誘致に熱心な地元の期待に応える形で、新鋭工場の建設を決意する。
 その敷地は、十分なものであったろう。旧東高梁川河口の地先海面を埋め立てて造成した土地に、機体工場のほか、飛行場もつくられる。それも、「その建設用地は農地化されていた廃川跡地を強制買収することによってまかなわれた」(平岡昭利編「中国・四国、地図で読む百年」古今書院、1999)という。ほかにも、労働者の社宅や寮、病院といった福利厚生施設も必要であったのだから。
 

(続く)

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◻️176の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、丸川松陰)

2019-10-01 19:22:19 | Weblog

176の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、丸川松陰)


 丸川松陰(まるかわしょういん、1758~1831)は、倉敷の西阿地の生まれ。そこには、新見藩の飛び地があり、家業は庄屋の代わりをしていた。家柄としては、元は新見藩士としてあったのが、父はその仕籍を離れていたという。
 幼い頃は、あまりはっきりしないものの、貧困ということではなかったのではないか。
 母親が我が子の教育に熱心であったらしい。15歳で総社の亀山如水の塾に入って、儒学を学ぶ。主に、朱子学という、親孝行や主君への忠節を重んじる封建的な流派を学んだのではないか。そればかりか、22歳で讃岐の小池薫陵の下で医学を学ぶ。
 父親は、この地域が不作続きであったため、周辺の村代表として水の訴訟に関係して江戸に6年もの間滞在するなど、家庭を顧みる余裕がなかった。
 30歳の時には、両親を亡くす。それから、33歳になると、大坂(現在の大阪)に出て中井竹山の懐徳書院に入門する。同門の佐藤一斎とともに、頭角を表す。
 やがて、新見藩(5代の関長誠(せきながのぶ))の藩校「思誠館」に招かれる。「督学」という最高待遇であった。なお、これに至るには、時の老中の松平定信から、江戸の昌平学問所に来ないかと誘われていたのを辞退してのことであったという。
 それからは、多くの人材を育てていく。山田方谷(1805~1877)もそのひとりで、5歳の時に松陰の門下に入り、山田はここで10年間学ぶ。

(続く)

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