◻️176の3『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)

2019-10-10 10:08:28 | Weblog

176の3『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)

 岡本豊彦(おかもととよひこ、1773~1845)は、画家。備中の窪屋郡(現在の倉敷)の旧家、岡本家の生まれ。
 十代の半ば頃から、倉敷の玉島に住んでいた南画家の黒田綾山に学ぶ。やがて、京に上り、「京都四条派」の呉春の画塾に入る。
 それからは、頭角を現していく。文政期の東本願寺再建では、小寝殿の襖絵などを担当する。師匠の呉春の没後には、画塾を開いて多くの門人を育てていく。
 呉春風の花鳥画、人物画はもちろん、南画風を加味して山水画をよくする。代表作の蓬莱山水図には、特に山水を能くした、彼の息遣いが漂うかのよう。静かにして、閑(しづか)なりしか。「呉春没後の四条派を盛り立てたのは、呉春の弟景文とならびこの豊彦であった」と伝わる。弟子の育成にも力をそそぐ。門下に塩川文麟、柴田是真らがいるとのこと。

(続く)

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◻️265の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、斎藤真一

2019-10-10 09:10:38 | Weblog

265の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、斎藤真一)

 斎藤真一(さいとう しんいち、1922 ~1994)は、異色の画風で知られる。児島郡(現在の倉敷市)の生まれ。
 1948年には、東京美術学校を卒業する。そして、静岡第一中学校の教諭となる。第4回の日展に初入選を果たす。1950年には、岡山県立天城高校の非常勤の教師となる。やがての1959年には、フランスに留学する、現地では藤田嗣治らと親交を結ぶ。1953年には、移転して、静岡県立伊東高校の教師となる。

 そして迎えた1962年には、描きたいものを見つけたようだ。「瞽女(ごぜ)」にひかれる。それからは、盲目の女性を沢山描く。彼女らは、津軽地方の三味線を弾き語る。あの高橋竹山のような激しい曲調が。やがて、18年間勤めた伊東高校を退職し、画業に打ち込む。

 さらに、関心は瞽女から明治期の遊廓の女性へと題材は深まっていく。母の知り合いで同郷の倉敷出身の女性が花魁だったことが、その扉を開いたという。

 1985年には、「明治吉原細見記」と「絵草子吉原炎上」を発表する。これら2作が、五社英雄監督の映画「吉原炎上」(東映株式会社)の原作となり、一躍有名画家の仲間入りをする。これらに関連しての「西津軽の街道」(1988)には、厳しい自然での掟のようなものを感じる。

(続く)

 

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◻️192の4の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴田義薫)

2019-10-10 08:53:35 | Weblog

192の4の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴田義薫)

 柴田義薫(しばたぎとう、1780~1819)は、備前国邑久郡尻海村(現在の瀬戸内市邑久町尻海)の生まれ。家業は、廻船業で、豪商の「奥屋」という。その豪商の次男。名は義董。やがて、父が他界する。
 義董が15歳頃の時に、彼は京都にいく。生活には、実家の援助があったろう。上洛後のことは、絵に決まっていたようだ。「四条派」の呉春の門人となり、精進する。その流れの中でも、目指すのは何であったのだろうか。
 文化年間(1804-1818)には、岡本豊彦・松村景文と並ぶ高弟と評価されるまでになっていた。洛中の人々も、「花鳥は景文、山水は豊彦」と並べて「人物は義董」と表す。その筆致の精妙さからか、だれもがやがての大成を期待する。身を削るように働いたからであろうか、体がついていきがたかったようであり、いかにも残念であったのではないか。

(続く)

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◻️211の33『岡山の今昔』岡山人(20世紀、清水比庵)

2019-10-10 08:24:03 | Weblog
211の33『岡山の今昔』岡山人(20世紀、清水比庵)

 清水比庵(しみずひあん、1883~1975)は、上房郡高梁町(現在の高梁市)の生まれ。書家と歌人、それに温かい感じのする絵も添えてある。本名は清水秀。
 家は、かなりの余裕があったのかもしれない。高梁中学校、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)には京都帝国大学法科大学を卒業する。
 それからは、司法官として神戸地裁にて勤務に励む。翌年退官し、安田銀行、古河銀行、古河電気工業から同社日光精銅所と勤務先を渡り歩く。転職には、なかなかにエネルギーを要したのではないか。
 1930(昭和5年)には、頼まれて日光町長になる。果たして、どういう風が吹いたのであろうか。その町長を辞してからは歌と書に没頭する。それから、文と画を一枚に描いたり。それが、なかなかに人なつかしものなのだ。
 1942年(昭和17年)には、川合玉堂、弟の清水三渓らと「野水会」を組織する。また、歌誌「窓日」を主宰する。それが世の中に知れたことから、1966年(昭和41年)には、皇居に行っての歌会始の行事の召人に選ばれたという。
 主な画集・歌集に「清水比庵作品集」(1978年)や「比庵百華」(1988年)、「毎日佳境、清水比庵・窓日彫拓本集」(1997年)などがあるとのこと。わけても、「ありがたや」の連呼は、誠にありがたい。それらのいずれにも、自己流の自然体で臨んだらしく、作為があるとすれば、戦争に負けたのを悔しげにしているのが滲み出てくる歌が印象に残るあたり、戦後の民主主義にはかなり距離を置いていたのではないか。

(続く)

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◻️192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

2019-10-10 08:20:06 | Weblog
192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

 衣笠豪谷(きぬがさごうこく、1850-1898)は、窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。名は済という。いつの頃からか、号が、備中の景勝地の豪渓にちなんで豪谷と号したという。
 幼い頃から、絵に興味があったという。たぶん、家族の後押しが必要であったのでは。まずは、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学ぶ。ついで、興譲館に入って阪谷朗廬に師事する。
 それでは満足できなかったのかもしれない。その後、江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学ぶ。
 それでも、安住できなかったみたいだ。今度は、京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねていく。1872年(明治6年)になると、絵画研究のため清国に渡る。
 ところが、である、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中するのであった。1876年に帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめる。内務省、農商務省にも勤務するかたわら、『清国式孵卵図解』を著す。ほかにも、耐火煉瓦の研究、水蜜桃の栽培などの紹介にも努める。
 絵の作品には、1881年に開催の第2回内国勧業博覧会には、「豪渓ノ真景」「花卉禽鳥ノ図」を出品する。ネットでは、「桃花春水図」に出ている桃の枝がかなりの細やかさで描いてある。
 と、まあ、慌ただしいかの人生を繰り広げるも、48歳の諸事半ばで亡くなったのはいかにも惜しい。察するに、天才たる者は、あれもこれもで鋭敏な頭脳が立ち止まり、休むのを許さなかったのではないだろうか。

(続く)

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