176の3『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)
岡本豊彦(おかもととよひこ、1773~1845)は、画家。備中の窪屋郡(現在の倉敷)の旧家、岡本家の生まれ。
十代の半ば頃から、倉敷の玉島に住んでいた南画家の黒田綾山に学ぶ。やがて、京に上り、「京都四条派」の呉春の画塾に入る。
それからは、頭角を現していく。文政期の東本願寺再建では、小寝殿の襖絵などを担当する。師匠の呉春の没後には、画塾を開いて多くの門人を育てていく。
呉春風の花鳥画、人物画はもちろん、南画風を加味して山水画をよくする。代表作の蓬莱山水図には、特に山水を能くした、彼の息遣いが漂うかのよう。静かにして、閑(しづか)なりしか。「呉春没後の四条派を盛り立てたのは、呉春の弟景文とならびこの豊彦であった」と伝わる。弟子の育成にも力をそそぐ。門下に塩川文麟、柴田是真らがいるとのこと。
(続く)
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265の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、斎藤真一)
斎藤真一(さいとう しんいち、1922 ~1994)は、異色の画風で知られる。児島郡(現在の倉敷市)の生まれ。
1948年には、東京美術学校を卒業する。そして、静岡第一中学校の教諭となる。第4回の日展に初入選を果たす。1950年には、岡山県立天城高校の非常勤の教師となる。やがての1959年には、フランスに留学する、現地では藤田嗣治らと親交を結ぶ。1953年には、移転して、静岡県立伊東高校の教師となる。
そして迎えた1962年には、描きたいものを見つけたようだ。「瞽女(ごぜ)」にひかれる。それからは、盲目の女性を沢山描く。彼女らは、津軽地方の三味線を弾き語る。あの高橋竹山のような激しい曲調が。やがて、18年間勤めた伊東高校を退職し、画業に打ち込む。
さらに、関心は瞽女から明治期の遊廓の女性へと題材は深まっていく。母の知り合いで同郷の倉敷出身の女性が花魁だったことが、その扉を開いたという。
1985年には、「明治吉原細見記」と「絵草子吉原炎上」を発表する。これら2作が、五社英雄監督の映画「吉原炎上」(東映株式会社)の原作となり、一躍有名画家の仲間入りをする。これらに関連しての「西津軽の街道」(1988)には、厳しい自然での掟のようなものを感じる。
(続く)
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192の4の5『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴田義薫)
柴田義薫(しばたぎとう、1780~1819)は、備前国邑久郡尻海村(現在の瀬戸内市邑久町尻海)の生まれ。家業は、廻船業で、豪商の「奥屋」という。その豪商の次男。名は義董。やがて、父が他界する。
義董が15歳頃の時に、彼は京都にいく。生活には、実家の援助があったろう。上洛後のことは、絵に決まっていたようだ。「四条派」の呉春の門人となり、精進する。その流れの中でも、目指すのは何であったのだろうか。
文化年間(1804-1818)には、岡本豊彦・松村景文と並ぶ高弟と評価されるまでになっていた。洛中の人々も、「花鳥は景文、山水は豊彦」と並べて「人物は義董」と表す。その筆致の精妙さからか、だれもがやがての大成を期待する。身を削るように働いたからであろうか、体がついていきがたかったようであり、いかにも残念であったのではないか。
(続く)
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清水比庵(しみずひあん、1883~1975)は、上房郡高梁町(現在の高梁市)の生まれ。書家と歌人、それに温かい感じのする絵も添えてある。本名は清水秀。
家は、かなりの余裕があったのかもしれない。高梁中学校、第六高等学校を経て、1908年(明治41年)には京都帝国大学法科大学を卒業する。
(続く)
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衣笠豪谷(きぬがさごうこく、1850-1898)は、窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。名は済という。いつの頃からか、号が、備中の景勝地の豪渓にちなんで豪谷と号したという。
絵の作品には、1881年に開催の第2回内国勧業博覧会には、「豪渓ノ真景」「花卉禽鳥ノ図」を出品する。ネットでは、「桃花春水図」に出ている桃の枝がかなりの細やかさで描いてある。
と、まあ、慌ただしいかの人生を繰り広げるも、48歳の諸事半ばで亡くなったのはいかにも惜しい。察するに、天才たる者は、あれもこれもで鋭敏な頭脳が立ち止まり、休むのを許さなかったのではないだろうか。
(続く)
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