◻️192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

2019-10-10 08:20:06 | Weblog
192の4の4『岡山の今昔』岡山人(19世紀、衣笠豪谷)

 衣笠豪谷(きぬがさごうこく、1850-1898)は、窪屋郡倉敷村(現在の倉敷市)の生まれ。名は済という。いつの頃からか、号が、備中の景勝地の豪渓にちなんで豪谷と号したという。
 幼い頃から、絵に興味があったという。たぶん、家族の後押しが必要であったのでは。まずは、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学ぶ。ついで、興譲館に入って阪谷朗廬に師事する。
 それでは満足できなかったのかもしれない。その後、江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学ぶ。
 それでも、安住できなかったみたいだ。今度は、京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねていく。1872年(明治6年)になると、絵画研究のため清国に渡る。
 ところが、である、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中するのであった。1876年に帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめる。内務省、農商務省にも勤務するかたわら、『清国式孵卵図解』を著す。ほかにも、耐火煉瓦の研究、水蜜桃の栽培などの紹介にも努める。
 絵の作品には、1881年に開催の第2回内国勧業博覧会には、「豪渓ノ真景」「花卉禽鳥ノ図」を出品する。ネットでは、「桃花春水図」に出ている桃の枝がかなりの細やかさで描いてある。
 と、まあ、慌ただしいかの人生を繰り広げるも、48歳の諸事半ばで亡くなったのはいかにも惜しい。察するに、天才たる者は、あれもこれもで鋭敏な頭脳が立ち止まり、休むのを許さなかったのではないだろうか。

(続く)

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