◻️176の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、丸川松陰)

2019-10-01 19:22:19 | Weblog

176の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、丸川松陰)


 丸川松陰(まるかわしょういん、1758~1831)は、倉敷の西阿地の生まれ。そこには、新見藩の飛び地があり、家業は庄屋の代わりをしていた。家柄としては、元は新見藩士としてあったのが、父はその仕籍を離れていたという。
 幼い頃は、あまりはっきりしないものの、貧困ということではなかったのではないか。
 母親が我が子の教育に熱心であったらしい。15歳で総社の亀山如水の塾に入って、儒学を学ぶ。主に、朱子学という、親孝行や主君への忠節を重んじる封建的な流派を学んだのではないか。そればかりか、22歳で讃岐の小池薫陵の下で医学を学ぶ。
 父親は、この地域が不作続きであったため、周辺の村代表として水の訴訟に関係して江戸に6年もの間滞在するなど、家庭を顧みる余裕がなかった。
 30歳の時には、両親を亡くす。それから、33歳になると、大坂(現在の大阪)に出て中井竹山の懐徳書院に入門する。同門の佐藤一斎とともに、頭角を表す。
 やがて、新見藩(5代の関長誠(せきながのぶ))の藩校「思誠館」に招かれる。「督学」という最高待遇であった。なお、これに至るには、時の老中の松平定信から、江戸の昌平学問所に来ないかと誘われていたのを辞退してのことであったという。
 それからは、多くの人材を育てていく。山田方谷(1805~1877)もそのひとりで、5歳の時に松陰の門下に入り、山田はここで10年間学ぶ。

(続く)

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