◻️243『岡山の今昔』岡山人(20世紀、西東三鬼)

2019-10-06 08:37:36 | Weblog

243『岡山の今昔』岡山人(20世紀、西東三鬼)

 西東三鬼(さいとうさんき、1900~1962)は、俳人として、この分野においては、「あまねく」といっていいほどに知られる。本名は斎藤敬直にして、当時の苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)の生まれ。1915年(大正14年)に、津山中学に入学する。3年後には、母がスペイン風邪で死ぬ。東京の長男を頼り、上京する。青山学院中等部から高等部へ。いろいろあったわけだ

 1925年(大正14年)には、日本歯科医院科専門学校を卒業する。何を思ったのか、シンガポールに渡り、歯科医として3年を過ごす。日本に戻り、東京の大森(現在の大田区大森)で歯科医院を営む。1932年(昭和7年)には、埼玉県の朝霞総合診療所の歯科部長になる。さらに翌年には、東京に移り、神田の共立病院歯科部長になる。

 ところが、この同じ年、患者から俳句を勧められたという。そして、一念発起したというから、驚く。

 それからは、まるで堰を切ったように、次から次へと、それまでの主流とは大いに違った俳句を発表していく。1934年(昭和9年)には、俳句雑誌「走馬灯」の同人となるほか、他の雑誌の同人にもどんどん売り込んでいく。1940年には、第一句集「旗」をつくる。

 ところが、この年、京都大学俳句事件が起きる。三鬼も特別高等警察で検挙されてしまう。俳句作りを当分やめるということで、起訴猶予となる。1942年(昭和17年)には、神戸へと移る。

(中略)

  それからかなりの時が移っての2018年、新聞に次の記事が載った。

 「西東三鬼の文庫版全句集が刊行。〈水枕ガバリと寒い海がある〉。新興俳句運動の代表的作家として活躍した西東三鬼(1900~62年)。その句業を総覧できる「西東三鬼全句集」が角川ソフィア文庫から刊行された。花鳥諷詠(かちょうふうえい)から離れた大胆不敵な作風で、俳人のみならず異分野の創作者からも支持されている。多様化する現代俳句の源泉の一つに手軽に触れられるようになった。三鬼は戦争を主題とする無季俳句を精力的に発表し、戦中の40・・・」
(2018/3/15付日本経済新聞)
 ここで今少し、折々にまとめられての句集に仲良く並んでいる中から、幾つかをお目にかけよう。
「おそるべき君等の一部夏来る」(1948)
「中年や遠くみのれる夜の桃」(1948)

「犬の蚤(のみ)寒き砂丘に跳び出せり」(1951)

 →ここに「蚤」とは、自身のことであるらしい。

「秋の暮れ大魚の骨を海が引く」(1962) 

(続く)

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