◻️225『岡山の今昔』岡山人(20世紀、仁科芳雄)

2019-04-29 22:45:40 | Weblog

225『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、仁科芳雄)


 仁科芳雄(にしなよしお、1890~1951)は、浅口郡里庄村浜中のうまれ。家は農業と製塩業をしていて、裕福であったらしい。幼い時から勉強に励み、1918年には東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、ヨーロッパに留学する。1921年に帰国し、理化学研究所で研究を進める。
 1941年。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを、陸軍が知り、理研に原爆の開発を依頼した。仁科に白羽の矢が立った。

 その約1年後、ミッドウェー海戦で大敗を喫した海軍も、「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織する。

 1943年には、陸軍へ報告書を提出する。その中で、核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。
 これに陸軍が反応した。「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。時の東条英機首相兼陸軍大臣は、研究開発を仁科研究室に命令する。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
 戦後は、1955年に仁科記念財団を設立する。1958年には、理化学研究所が再建される。そんなエネルギッシュな仁科なのだが、戦後にこんな文を記している。

 「現実の問題として戦争を絶滅することの困難は既知の通りである。これは国際間の正義とか誠意とか信頼とかの道徳的方法だけでは従来の埓を一歩もでることはできない。然し前述の一部科学者の理想とした様な、新しい原子力という大きな現実の重圧によっては、それが成功する可能性が生じたのである。否成功しなければ文化の破滅、人類の退歩を招来する危険があるから、何としてもこれを成功せしめねばならぬ。
 そこですぐわかることは、ここに一つのディレンマの存在することである。即ち一方原子爆弾の被害を除くために、その存在を許さぬことにすれば安心ではあるが、その恐るべき重圧がなくなる結果として戦争の勃発を見る可能性がある。戦争が起れば原子爆弾の登場は予期すべきであろう。これに反し戦争の惹起を防ぐ重圧を与えるために原子爆弾の存在を許すこととなれば、それを有効に管理しない限り、何時それが悪用せられ人類文化の破壊に導くかも知れないという惧おそれがある。そこで凡ては管理の問題にかかってくる。これを如何にすべきやというのが世界列強の重大問題であり、国際連合の一大関心事である。」(「原子力の管理」)
 と、いかにも現実主義者らしい物言いながら、そういうのであるならば、自身の戦前での行動に対し、もっと真摯な反省を表明して然るべきだろう。これは、昭和天皇(かれは、一度も自身の戦争責任を語ることをしなかった。少なくとも、かれはかかる一点に限っては、人として不誠実であったと言わざるを得ない)などにも共通していると感じられることなのだか、かくも簡単に戦前と戦後を使い分けてよいものであろうか。核時代における我が国の平和主義というのは、核兵器を根絶する志向性を持つものでなければならないし、またそうでなければ去り行きし私たちの同胞(世界と日本の、むこの人々)に申し訳が立たないと考えるのだが、いかがであろうか。

(続く)

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