168『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田徳右衛門)
1726年(享保11年)に勃発した山中一揆の指導者の一人、池田徳右衛門(いけだとくうえもん、?~1727)については、本人の筆による、1727年2月2日に記した書状が残っており、それにはこうある。
まずは、「正月十二日五つ下刻(現在でいう9時・引用者)に出ス」とあって、本題の連絡文には、こうある。
/山中之百姓中壹人も不残/土居河原小川久見村々二泊/申し候所二川下之百姓中御出/不被成所聞極弥不出候ハ々/山中之百姓中其者へ皆/罷り出候二申候日々それ迷惑二/奉存候村々状着衆中/急二百姓中召連可出会候/正月十二日/徳右衛門」」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)
しかして、彼が、中心の一人となってのこの一揆の評価については、様々に記されているところだ。
そのひとつ、『美国四民乱放記』には、徳右衛門(牧村、現在の湯原町)の人となり、その豪快にして繊細な人格は、かの島原の乱の首領天草四郎の孫に見立てている。ただし、この本の著者が本件に対し臨んでいる態度は、一揆の行動が正義によるものではなく、「津山ヲ蔑二致」したための「天罰」であったとして、批判しているところに特色がある。
「徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。」
加えるに、1727年5月2日(旧暦享保12年3月12日)、かれが死を迎えるときの様は、気丈夫な上に華々しい。「作陽乱聴記」には、次のこと(現代訳)が記されているという。
「いよいよ徳右衛門の前に、槍が構えられた。と「しばらくまて」と磔上から声がかかった。「何か」と尋ねると「気楽に受け答えの声を掛けてやろう。突く時には声を掛けてこい」と、然らばとて「右より参るぞ」と言えば「合点」と答えて穂先を受けた。ついで「左より参るぞ」と言えば、「覚えたり」と答え、両脇に槍を受けたうえ「さらば止(とど)めに参るぞ」と言えば、気丈にもなお応答の声が聞き取れたのであった。」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)
(続く)
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