◻️168『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田徳右衛門)

2019-04-30 22:13:59 | Weblog

168『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田徳右衛門)

 1726年(享保11年)に勃発した山中一揆の指導者の一人、池田徳右衛門(いけだとくうえもん、?~1727)については、本人の筆による、1727年2月2日に記した書状が残っており、それにはこうある。

 まずは、「正月十二日五つ下刻(現在でいう9時・引用者)に出ス」とあって、本題の連絡文には、こうある。

 「急度申入候。然者此度山中/三触不残土居河原へ揃居/申筈のしかひぢや触下長田/上ハ白か天王之あい土居久見/不残相詰申候其村々大小之/百姓不残る召連此様子着/次第土居河原着到仕候/村々状着不残/牧徳右衛門/正月十二日五つ下刻に出ス」

 続けて、「正月十二日四つ上刻(現在でいう10時・引用者)に出ス」文面は、こうなっている。

 「村々状着中/早々送り可被申候/十二四つ上刻請取/中間/尚々いそぎいそぎ此様子着次第/御出会可被候土居河原相談有之
/山中之百姓中壹人も不残/土居河原小川久見村々二泊/申し候所二川下之百姓中御出/不被成所聞極弥不出候ハ々/山中之百姓中其者へ皆/罷り出候二申候日々それ迷惑二/奉存候村々状着衆中/急二百姓中召連可出会候/正月十二日/徳右衛門」」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)

 この手紙を出す前日に、村人の状着に、土居河原に結集するよう促していたのが、期待通りにいかなかった。そこで、再度、結集を促す行動に出た訳なのだ。

 しかして、彼が、中心の一人となってのこの一揆の評価については、様々に記されているところだ。

 そのひとつ、『美国四民乱放記』には、徳右衛門(牧村、現在の湯原町)の人となり、その豪快にして繊細な人格は、かの島原の乱の首領天草四郎の孫に見立てている。ただし、この本の著者が本件に対し臨んでいる態度は、一揆の行動が正義によるものではなく、「津山ヲ蔑二致」したための「天罰」であったとして、批判しているところに特色がある。

 「徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。」

 加えるに、1727年5月2日(旧暦享保12年3月12日)、かれが死を迎えるときの様は、気丈夫な上に華々しい。「作陽乱聴記」には、次のこと(現代訳)が記されているという。

 「いよいよ徳右衛門の前に、槍が構えられた。と「しばらくまて」と磔上から声がかかった。「何か」と尋ねると「気楽に受け答えの声を掛けてやろう。突く時には声を掛けてこい」と、然らばとて「右より参るぞ」と言えば「合点」と答えて穂先を受けた。ついで「左より参るぞ」と言えば、「覚えたり」と答え、両脇に槍を受けたうえ「さらば止(とど)めに参るぞ」と言えば、気丈にもなお応答の声が聞き取れたのであった。」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)

(続く)

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◻️160『岡山の今昔』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門)

2019-04-30 21:36:34 | Weblog

160『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 

 かくも果敢に闘われた元禄一揆(高倉騒動ともいう)の結末としては、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで農民に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束に向かう。

 そして、高倉村大庄屋にして働く者の側に立った三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる、これと言えるほどの人物はいなかったものとみえる。

 その後については、しだいに「苔むして」といおうか、表面からの民衆運動はみられなくなる。しかしなお、額に汗して働く人々により、怯むことなくその勇気が語り継がれていく。

 なお、高倉神社(下高倉)本殿の脇には、かかる堀内三郎右衛門の妻の傳が、残った二子の無事成長を祈願した一対の石灯籠が立っているとのことだ。


(続く)

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