○○219『自然と人間の歴史・日本篇』大塩平八郎の乱(1837)と天保の改革(1834~1843)

2017-08-07 18:47:22 | Weblog

219『自然と人間の歴史・日本篇』大塩平八郎の乱(1837)と天保の改革(1834~1843)

 江戸時代も19世紀になると、徳川幕藩体制による民衆支配の屋台骨が揺らいできた。1837年(天保8年)、天保の飢饉のさなかの大坂では、民衆の生活救済に腐心してきた大塩平八郎らが、幕府の「御政道」を正そうと立ち上がった。しかし、決起の事前にこの計画を察知した幕府に潰された、これを「大塩平八郎の乱」と呼ぶ。その前年の飢饉に際して、大坂町奉行をはじめ役人たちはなんら民衆の救済策を講じることなく、無為無策であった。それなのに、大坂の豪商らはかえって大量の米を江戸へ回送し、米を買占めるという奸智ぶりであり、そのことで暴利を博してはばかるところがなかった。正義感と世直しに燃えていた大塩は、この両方に激怒し、門下の与力・同心など、近郷の富農らとひそかに謀って、ともに「世直し」をしようとしたのであった。
 文政期から天保期にかけては、体制側からの改革の機運が盛り上がってくる。そこへ水野忠邦が老中となって、幕政の改革に着手した。物価安定をねらった倹約令や、株仲間の解散、それに江戸からの人返しといった荒手の改革に着手した。これらのうち倹約令では、規制品外贅沢品の使用を禁止したものの、効果は芳しくなかった。
 また、株仲間の解散令により、生産物の集荷や流通を独占していた問屋株仲間の専横を抑え、商人間の自由な競争を促す。その達しには、こうあった。
 「仲間株札は勿論、此外共都而問屋仲間並組合抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋共江申渡書。
 菱垣迴船積問屋、十組問屋共。
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納致来たり候処、問屋共不正の趣に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後仲間株札は勿論、此外共都而問屋仲間並組合抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も 素人直売買勝手次第たるべく候。且又諸家国産類其外惣而は江戸表江相迴し 候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第 に候間其の旨存じすべし。(中略)
 天保十二年丑十二月十三日」
 これに「十組問屋」(とくみどいや)とは、そもそも1694年(元禄7年)に、江戸と大坂間の舟運を取り仕切っていた商人(荷主)たちが、諸国物産の卸売り・問屋を独占するために設けた。1822年(文政5年)には、は、幕府から念願の株の認可を取得した。この時、すでに65組を組織していたと伝わる。その進出は、さまざまな分野に及んでいた。彼らの仲間うちでは、仲間の制限や、保有する株の譲渡の条件・方法などを定め、新規加入を制限していたことが知れている。奉公人を自由に引き抜かれては困ることから、制裁などを申しあわせることも取り決めていたという。幕府に認可してもらう代償としては、国庫に冥加金(みょうがきん)を納めるほか、無代物納や無賃任即の提供まで行っていたようで、それらの負担を上回る見返り利益が見込まれていたからに他なるまい。そんな問屋などの株仲間を解散させようというのであったとすれば、幕府として、当時の社会に浸透しつつ商品経済になんとか規制の網をかけて、なんとか封建制の土台を維持しようとしていたのかもしれないが、その政策意図についてははっきりしない部分がなお多い。
 1838年には、老中水野忠邦(みずのただくに)の肝煎りで、諸国の代官に現時点での地方が抱えている問題についての諮問があった時、越後国出雲崎代官が幕府に提出した回答(上申書)にはこう書かれていた。
 「帰住相願い候者は稀にて、御府内又は在町へ立ち入り、生涯立ち戻らざる者どもは、支配において厚く世話致し候とも行き届き難し、殊に在方(村のこと・引用者)にては昼夜農業のために艱苦骨折、その上、米を食し候者は少なく、麦稗へかて(混ぜ加える食物・引用者)を取り交ぜそ食致し候者、御府内へ出候ては、その日稼ぎ致し候者も美食を致し、身持ち惰弱に相成り候故、帰住の志さらにこれ無し。」(『市中取締類集』)
 これを受けてか、1843年(天保14年)には「人返し令」が発布される。これは、寛政の改革時にだされた『旧里帰農令』を強化したものであった。農民が農村から離れることで封建制経済が崩壊することを避けるために、江戸やその周辺などに来た農民を元の場所に引き戻すのみならず、そもそも江戸府内に入れることのないよう手配するものであった。
 「天保十四年卯年三月廿六日条
 諸国人別改方の儀、此度仰出され候に付而は、自今以後、在方のもの身上相仕舞、江戸人別に入候儀決し而相成らず候間、領分知行所役場等に罷在候家来より、精々勧農之儀申諭、成丈ケ人別減らざる様取計、且職分に付、当分出稼之もの並奉公稼に出府致候もの共は、村役人共連印之願書差出させ、右願之趣、承届候旨、(中略)在方にまかりあり候家来え精々申しつけらるべく候。
 在方之もの当地江出居、馴候に随ひ、(中略)商売等相始め、妻子等持候ものも、一般に差戻に相成候而は、難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず、以後取締方左之通り仰出され候」(『徳川禁令考』)
 「天保十四年三月条
  在々え御触
 在方のもの当地へ出居馴候に随ひ、故郷え立戻候念慮絶し、其侭人別に加わり候もの年を追い相増し、在方人別相減候趣相聞こえ、然るべからざる儀に付、今般悉く相改め、残らず帰郷仰せ付けらるべく候処、商売等相始め、妻子等持候ものも一般に差戻しに相成候而は難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず、以後取締方左之通り仰出され候。
一、在方のもの身上相仕舞い、江戸人別に入候儀、自今以後決而相成らず。(中略)
一、近年御府内え入込み、裏店等借請け居り候もの内には妻子等もこれなく、一期住み同様のものもこれ有るべし。左様の類は早々村方え呼戻し申すべき事。」(『牧民金鑑』)
 上段の文章であるが、ここに「在方のもの身上相仕舞江戸人別に入候儀」として、村人が所帯をたたんで江戸の人別に入ることを禁じている。一時的に出稼ぎにやってきたり、奉公に来る者についても、必ず村役人、ひいては領主・代官の許可を得ることとした。
下段の引用文(「在々え御触」)においては、「商売等相始め、妻子等持候ものも一般に差戻しに相成候而は難渋致すべき筋に付、格別之御仁恵を以、是迄年来人別に加わり居候分者、帰郷之御沙汰にはおよばれず」といい、すでに町方で定着している者については例外とする緩和修正も行っている。
 彼の農業面でのもくろみの一つが、印旛沼(いんばぬま)の開発であった。これを思い付いた時は1842年(天保13年)、印旛沼は利根川の遊泳地となっていた。面積が27平方キロメートルあることから、普段は余った水がここへ逆流して集まってくるのでよい。ところが、増水が一本調子で嵩(こう)じる、つまり上流に大雨が続くと、利根川の増水を吸収するどころか、今度は印旛沼が氾濫して、周囲の村々が水浸しになってしまう。そこで、水野と幕格(ばっかく)は、この印旛沼から江戸湾(現在の東京湾)に向かって運河を通すことにしたい。そうして溢れた水を海に導くとともに、沼の近辺の川の河床を深くする。そのことにより、沼地が良田に替わるという一石二鳥の効果を見込んだ。
 幕府は、さっそく、噂に高い二宮金次郎(にのみやきんじろう)に土木工事の指導を請け負うよう頼み込んだ。しかし、金次郎から提出された『利根川分水路掘割御普請見込之趣申上候書付』なる案は、正攻法のやり方で時間がかかる企画内容であった。だが、短兵急な仕上がりを考える水野は、これを採用しない。そこで、幕府勘定所にいる地方技術者などを中心に新たな計画を立てて、これを五つの藩に命じて嵩じを受け持たせることにした。 翌1843年(天保14年)に着工され、毎日5万人からの人夫が投入された。一説には、25万両ものカネが投入された。しかし、何らの成果もあげられないうちに、旗振り役の水野が失脚して天保の改革時代が瓦解したため、この工事は未完のままに終了した。
 それから、1843年(天保14年)、『上知令(あげちれい)』を出して、江戸と大坂の十里四方、あわせて50万石分の土地を幕府領に差し出させる。これで幕府財政を安定させようとする。
 「天保十四卯年八月十八日条
 御料所の内、薄地多く御収納免合相劣り、(中略)御料所より私領の方、高免の土地多くこれあり候は不都合の儀と存じ奉り候。仮令如何様の御由緒を以て下され、又は家祖共武功等にて頂戴候領地に候とも、加削は当御代思召次第の処(中略)此の度、江戸・大坂最寄御取締りと為て上知仰せ付けられ候。右領分其の余、飛地の領分にも高免之場所もこれ有り、御沙汰次第差上げ、代地の儀如何様にも苦しからず候得共、三つ五分より宜敷き場所に而は折角上知相願ひ候詮も之無く候間、御定の通り三つ五分に過ぎざる土地下され候得ば、有難く安心仕る可く候。」(『続徳川実記』)
 ここに「上知(あげち)」というのは、土地の所有者に当該土地を幕府に返上させることである。また「三つ五分」とあるのは、代地の年貢課税率が三割五分よりも高いところでは、「上知」を下達した意味もないので、規定通り、この年貢率を越えない土地を代地として与えることにしている。この法令が実施されると、「上知」を命じられた土地に領地を持つ三河譜代や旗本、かれらに経済的に結び付いている豪農、商人などもこぞって反対した。当初はこれに賛成していた老中の土井利位(どいとしつら)も反対に回った。おりしも、庶民の人気はつるべ落としになっていき、改革反対派はしだいに強力になっていった。このため、水野は1843年(天保14年)、お勝手取扱いのことで不行届きがあったとして、老中職に留まること2年5箇月にしてその要職から引きずり降ろされてしまった。

(続く)

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