◻️192の4の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)  

2019-09-27 22:48:50 | Weblog
192の4の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)
 
 緒方研堂(おがたけんどう、1814~1871)は、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町)の生まれ。本名を大戸惟嵩という。字(あざな)は子文。通称は郁蔵という。少年の頃、漢学者であり蘭学医の山鳴大年について漢学を学ぶ。大年の勧めによって、江戸に出て、津山藩の儒学者、昌谷精渓(さかやせいけい)の塾に入る。
 その後、坪井信道の塾に入り蘭学を研究する。その塾で、足守の出身である緒方洪庵と出会う。
 1838年(天保9年)、大阪で適塾が開業したことを聞いて、洪庵の所へかけつける。そこで研堂は塾頭となり、蘭学や医学を研究する。そのうちに塾頭となり、患者の治療の手助けも行う。洪庵を兄と慕う、やがて義弟となり、緒方研堂と名乗る。
 さらに、独笑軒という塾を大阪に開き、独立を果たす。以来、世間では、洪庵の塾を北の緒方、研堂の塾を南の緒方と呼んだらしい。そのかたわらか、土佐の高知藩で洋学を教えたという。
 時代が改まっての1868年(明治2年)には、明治新政府は大阪医学校を開くことになり、研堂を少博士待遇にて招く。そこでは、洋書の翻訳、教授及び治療に従事する。

 

 その塾名からもうかがえるように、随分と気さくな人であったのかもしれない。訳書に、「内外新法」「療疫新法」などがあるというから、治療の仕事の上に、そちらの仕事も引き受け、すべからく「世のため人のために」粉骨砕身していたのであろうか。

(続く)

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