ものがたりにモデルはありますが、事実通りではありません
⑥
ご縁という見えない力があるのだろうか、私が上京したした二年後に典子先生ご夫妻が東京にお住まいになるこ
とになった。謙三先生が立教大学に教授として迎えられ、典子先生は東海大学で留学生に日本語を教えられることになった。
お住まいは、世田谷で医院を開業なさっている典子先生の伯母上の二階を間借りなさっていた。同級生で東京の
短大に通う陽子と一緒にお邪魔すると、ここでも階段の両脇まで迫る本をきっちりと整頓されて、すべてが収まる
場所に収まって、ものがあることがかえってそれで整然とした印象を与えていた。
典子先生はお手製のバナナケーキで迎えて下さった。紅茶を淹れてくださる先生の美しい手際を、私たちは見と
れて会話のない時間も間が持たないということがなかった。謙三先生は
「どうぞごゆっくり」
とおっしゃるとタオルを持って銭湯に出かけられた。
先生ほどの方でもお風呂のない二間だけの住まいでケーキを焼いてつましい暮らしをなさっている、自分の大学
生活を振り返って身が引き締まった。
典子先生にはお子さんがなく、謙三先生と二人だけの東京の暮らしを楽しんでいらっしゃった。歌舞伎や文楽か
ら渋谷ジァンジァンのライブに天井桟敷や状況劇場などアングラまで幅広く観賞なさって、筋書きやパンフレット
を見せて下さった。
帰り道、陽子が私に告げた「あなたのことを先生に話したら青春の最中なのね、胸が痛くなるとおっしゃってた
わよ」と。
それから私は学生結婚をした。
式は軽井沢の聖パウロ教会で、披露宴は成城の住宅街にあるマダムチャンで行った。典子先生は謙三先生と万平
ホテルに泊まって式に参列して下さり、マダムチャンでの食事にも出席して下さった。マダムチャンでは双方各
20名ほどのの出席者には、スピーチはせずに自己紹介と新郎新婦への一言という形をお願いした。反対の多い結
婚に厳しい言葉も出た中、典子先生はしっかりと「わかりにくい行動をとる人ですが、必ず意味のあることをしま
すのでよろしくお願いします」と私をかばうように挨拶をなさった。
その日は平服でと案内をしていたので先生は式には中紫の小紋、披露宴には黒紫地に白の秋草模様の小紋で出席
なさっていた。
しかし後日披露宴の写真を見ると、先生の帯の背にはデザイン文字の壽が染め抜かれていた。
陽子と私は先生を映画や鎌倉にお誘いして遊んで頂いた。国語や歴史について先生にお尋ねした時は答えの返っ
てこないことはなく、どんなこともご存じだった。
先生と百人一首で遊びたいとは以前から考えていたのだが、思い立って京都で百人一首の会をすることにした。
会場は友人の実家である料理屋の二階、知人六人ほどを集めて昼食をし、そのあとをかるた会に使わせてもらうこ
とにしていた。二月の初めは雪が多く、先生は関ヶ原あたりで新幹線に停められて店には遅れるとの電話が入っ
た。
それでも昼食の最後までには到着なさり、薄桃色の羽織姿で畳の部屋の入口から手をついて挨拶をなさったお姿
に皆がほうと目を開いた。
夜は大阪から来たマリの希望で先斗町のますだに出かけた。ここは吉行淳之介の行きつけということでマリが選
んだ。小上がりに陣取ったわれわれのところにますだの女将が来るとマリが「吉行さんはよくいらっしゃるのです
か」と尋ねた。女将は「吉行センセは宮城まり子さんのとことちがいますか」と笑ってはぐらかし「ええべべ来て
はるなあ」と典子先生の背中をぽんぽんと叩いた。
翌日は先生を嵐山の吉兆にご案内した。店の主人が暮しの手帖に連載を始めたこと関西以外にもしられるように
なってはいたが、まだそれほどの名声はなかった。
先生は床の間の軸を丹念に拝見なさり「母を連れてきたい」とおっしゃった。
大学は学生の紛争が終りに向かっていたが、私は地に足のつかない霧の中をさまよっていた。大学も結婚も自分
の希望をかなえたはずが、行先も心が帰る場所も見えない。大学紛争も鬱病もあいかわらずくすぶっていた。遠い
先のことではなく、日々の小さなことに目を向けて誰に当てるというのでもなく、言葉を書きまとめてガリ版刷り
の文集を作ってみた。それを気心の知れた二十人ほどの知人にだけ送った。
最初に感想を下さったのは典子先生だった。
“あなたの文集を読んでいると、思いがけないところに情緒のひろがりがあってこちらの気持ちもずいぶんなごみ
ます。中学生からのあなたを思い出しながら、堀辰雄の文の題名が並ぶとこんなにきれいなのだと改めて見直しま
した。熱心な読者になりますから どうぞ第二集も送ってください。私の世界にはないことがたくさんあって楽し
いのです。私のかたい常識の壁があなたの真摯さに打たれて もしかしたら飛翔の穴があけられるかもしれないな
どと”
先生もさまよっていらっしゃったのかもしれない。
⑥
ご縁という見えない力があるのだろうか、私が上京したした二年後に典子先生ご夫妻が東京にお住まいになるこ
とになった。謙三先生が立教大学に教授として迎えられ、典子先生は東海大学で留学生に日本語を教えられることになった。
お住まいは、世田谷で医院を開業なさっている典子先生の伯母上の二階を間借りなさっていた。同級生で東京の
短大に通う陽子と一緒にお邪魔すると、ここでも階段の両脇まで迫る本をきっちりと整頓されて、すべてが収まる
場所に収まって、ものがあることがかえってそれで整然とした印象を与えていた。
典子先生はお手製のバナナケーキで迎えて下さった。紅茶を淹れてくださる先生の美しい手際を、私たちは見と
れて会話のない時間も間が持たないということがなかった。謙三先生は
「どうぞごゆっくり」
とおっしゃるとタオルを持って銭湯に出かけられた。
先生ほどの方でもお風呂のない二間だけの住まいでケーキを焼いてつましい暮らしをなさっている、自分の大学
生活を振り返って身が引き締まった。
典子先生にはお子さんがなく、謙三先生と二人だけの東京の暮らしを楽しんでいらっしゃった。歌舞伎や文楽か
ら渋谷ジァンジァンのライブに天井桟敷や状況劇場などアングラまで幅広く観賞なさって、筋書きやパンフレット
を見せて下さった。
帰り道、陽子が私に告げた「あなたのことを先生に話したら青春の最中なのね、胸が痛くなるとおっしゃってた
わよ」と。
それから私は学生結婚をした。
式は軽井沢の聖パウロ教会で、披露宴は成城の住宅街にあるマダムチャンで行った。典子先生は謙三先生と万平
ホテルに泊まって式に参列して下さり、マダムチャンでの食事にも出席して下さった。マダムチャンでは双方各
20名ほどのの出席者には、スピーチはせずに自己紹介と新郎新婦への一言という形をお願いした。反対の多い結
婚に厳しい言葉も出た中、典子先生はしっかりと「わかりにくい行動をとる人ですが、必ず意味のあることをしま
すのでよろしくお願いします」と私をかばうように挨拶をなさった。
その日は平服でと案内をしていたので先生は式には中紫の小紋、披露宴には黒紫地に白の秋草模様の小紋で出席
なさっていた。
しかし後日披露宴の写真を見ると、先生の帯の背にはデザイン文字の壽が染め抜かれていた。
陽子と私は先生を映画や鎌倉にお誘いして遊んで頂いた。国語や歴史について先生にお尋ねした時は答えの返っ
てこないことはなく、どんなこともご存じだった。
先生と百人一首で遊びたいとは以前から考えていたのだが、思い立って京都で百人一首の会をすることにした。
会場は友人の実家である料理屋の二階、知人六人ほどを集めて昼食をし、そのあとをかるた会に使わせてもらうこ
とにしていた。二月の初めは雪が多く、先生は関ヶ原あたりで新幹線に停められて店には遅れるとの電話が入っ
た。
それでも昼食の最後までには到着なさり、薄桃色の羽織姿で畳の部屋の入口から手をついて挨拶をなさったお姿
に皆がほうと目を開いた。
夜は大阪から来たマリの希望で先斗町のますだに出かけた。ここは吉行淳之介の行きつけということでマリが選
んだ。小上がりに陣取ったわれわれのところにますだの女将が来るとマリが「吉行さんはよくいらっしゃるのです
か」と尋ねた。女将は「吉行センセは宮城まり子さんのとことちがいますか」と笑ってはぐらかし「ええべべ来て
はるなあ」と典子先生の背中をぽんぽんと叩いた。
翌日は先生を嵐山の吉兆にご案内した。店の主人が暮しの手帖に連載を始めたこと関西以外にもしられるように
なってはいたが、まだそれほどの名声はなかった。
先生は床の間の軸を丹念に拝見なさり「母を連れてきたい」とおっしゃった。
大学は学生の紛争が終りに向かっていたが、私は地に足のつかない霧の中をさまよっていた。大学も結婚も自分
の希望をかなえたはずが、行先も心が帰る場所も見えない。大学紛争も鬱病もあいかわらずくすぶっていた。遠い
先のことではなく、日々の小さなことに目を向けて誰に当てるというのでもなく、言葉を書きまとめてガリ版刷り
の文集を作ってみた。それを気心の知れた二十人ほどの知人にだけ送った。
最初に感想を下さったのは典子先生だった。
“あなたの文集を読んでいると、思いがけないところに情緒のひろがりがあってこちらの気持ちもずいぶんなごみ
ます。中学生からのあなたを思い出しながら、堀辰雄の文の題名が並ぶとこんなにきれいなのだと改めて見直しま
した。熱心な読者になりますから どうぞ第二集も送ってください。私の世界にはないことがたくさんあって楽し
いのです。私のかたい常識の壁があなたの真摯さに打たれて もしかしたら飛翔の穴があけられるかもしれないな
どと”
先生もさまよっていらっしゃったのかもしれない。