京都のカフェ Rive Droite 1998~2001 6.

2011-02-12 00:21:08 | 物語
6. 花背

 和田がいなくなり、遠藤は六月で東京の親元に帰り、江口がフランス留学に発ち、ボス
コも日本滞在のビザが切れる日が近くなり、金城は修行先の寺が決まった。
 秋に入って店は少し持ち直したものの、春の開店時の程度にも売り上げは行かなかった。
それにもかかわらず、募集もしないのにRive Droite で働きたいという応募は多かった。
人を減らしている状況では新規採用はあり得なかったが、一人だけ雇ってみようかと思わ
せる人材が現われた。
 篠田はホテルの厨房に十五年勤めたが、今はビュッフェ料理の店で夜だけ働いているの
で、昼の仕事を探しているといってやってきた。
 ずいぶん都合のいいことを言っていると思ったが、店の二階が有効に活用されていない
ことを思えば、土日のランチだけプロのフランス料理を出すのも一案と考えた。
 篠田は上手に使われてくれた。牛肉のミロトンやオニオンスープなど、今までは頭には
あっても自分では完成させたことのない料理を、こちらが頼むと正確に実現させてくれた。
 レシピがあれば何でも致しますと言い、むしろ自分から提案するより私に提示してもら
う方が動きやすいと言った。私自身は、料理の過程で一番好きなのは献立を組み立てる部
分なので、この共同作業は、初めて体験するぐいぐいと引き込まれる楽しい興奮があった。
 公庫融資の保証人になってくれたゆみこが、十月に予備校時代の友人と同窓会を京都で
開くので、昼食をRive Droite でとりたいと十六名の予約をくれた。
 前菜は四種のきのこのソテーを考え、松茸、椎茸、ポルチーニのほかに、静岡の食品会
社が栽培している生のアガリスク茸を取り寄せた。
 篠田の、加熱しすぎない火加減はプロのものだった。スープはビスク。蟹や海老は新鮮
なものを使いたかったので、錦市場でみつけた琵琶湖の小海老を採用した。前日からじっ
くりと時間をかけて煮込まれたビスクは、私には久々に味わう滋味だった。
 レストランに出かけて、その店のメニューに載っている料理を注文したことならある。
献立作りから始まって、材料、調理法まで自分の思い通りの食事を並べられる幸福は、今
まで経験がない。古来、裕福な人たちがお抱え料理人を持ったのが肯ける。
 メインはポークの蜂蜜ロースト。固くならないように仕上げるのもプロの技である。
 篠田は材料を大切に使った。ほんの少しの野菜の切れ端も、ラップフィルムにくるんで
保存していた。それが当たり前かもしれないが、私の目には新鮮な作業に映った。
 四十歳の篠田を私に雇ってみようと思わせたのには、もう一つ訳がある。店の従業員の
うち五人が蟹座生まれで、そのうち四人が二人ずつ同じ誕生日だったので、篠田の履歴書
の誕生日が蟹座だったことから、仲間になれるかもしれないという気がしたのだった。
 いつも従業員の誕生日には、店の営業が終ってシャッターをおろした後に、皆で小さな
宴会をしていた。蟹座生まれはまとめて御所近くの店で会食をした。
 秋は誰も誕生日の者がいなかった。パリに住む蟹座生まれの親友保子は、毎年春と秋に
帰国して、京都の私のところへも訪ねてくれた。お花見と違って紅葉狩りは寂しいという
保子と、店のスタッフを一緒に花背に連れて行くことを思い立った。文化の日の翌日を臨
時休業にして、花背のログハウスの貸し別荘に、一泊の予約を入れた。
 金城はカフェは儲かっていないから自分は遠慮した方がいいのではないかと心配しなが
ら付いてきた。レンタカーの運転は阿部が引き受けてくれた。丁度店の斜め前にレンタカ
ーの事務所があったので、ワゴン車を借りた。ほかには息子とボスコが参加した。
 私自身は社員旅行や会社の宴会のあるところに就職した経験はないが、なぜ本来娯楽で
あるべきそうした行事や時間を、会社側から強制的に押付けられねばならないのかと思う。
そんな考えでいるので、花背には希望者だけの参加にした。
 また、雇い主は部下とは一線を引くという考え方に私も賛成だったのだが、そんなこと
をしなくても、なめられたり叱り難くなったりはしないと思うようになっていた。
 阿部は家業の手伝いで運転しているとは言うけれど、鞍馬や花背のくねった山道は慣れ
ていないことが不安だった。
 峠を越えると、洛北の幾重にも連なる山並みが、肩を赤く染めて現われる。下り坂の崖
を複数の野ブドウの房が垂れ下がって覆っている。薄緑から一旦色の抜けた白い実、そし
て濃紫へと連なる豪華なグラデーションを鑑賞するため、車をそこで停めて一休みをした。
 予約を入れた貸し別荘の手前に、私が畑を借りている古原さんの家がある。ここにもご
無沙汰のお詫びを言うために、ちょっと寄る旨予め電話を入れておいた。視界は空以外は
草木が殆どで、隣家というものは見えない過疎村である。古原家の前で小休稽すると、皆
深呼吸をした。体の中の音が耳鳴りとして聞こえるくらい静かな谷あいに、杉のおがくず
が香っている。
          
 店を始める前は週に一回バスで畑に通っていたのが、カフェを始めたら全く時間がなく
なってしまった。古原さんの若奥さんに会うのも久しぶりだった。
「石井さん、今日のお泊りはログハウスや言うてはりましたわね」
「そうです」
「そやったらプレゼントがあるんです。ちょっと来て下さい」
 古原さんは家の奥から木の札を持ってきた。
「これは花背の秋の運動会で一等の商品に貰うたログハウスの無料券なんです。うちは使
うことないし、親戚は花背に来てもうちに泊まりますやろ。石井さんが使うて下さい」
「わあ嬉しい」
 秋には持ち直したといってもまだまだ赤字で、この小旅行も迷った末の実行だったので、
実に有難かった。これで出費はレンタカーの分だけで済み、宿泊の二万五千円が助かった。
食べ物は店の残りのパテと牛肉のポトフと赤ワインを持ってきている。
 ログハウスの持ち主に無料券を渡すとき、向こうはさぞがっかりするだろうと、いささ
か気が引けたが、こちらが古原さんと知り合いということは昔からの地主さんと知り合い
ということなので、保証と思ってもらうことにした。
 実際、貸し別荘に着き、川を挟んで向かいにあるオーナーのところに行くと、既に古原
さんから連絡が入っていたのか、無料券に少しも驚くことなく、ログハウスの鍵を渡して
くれた。
 保子と私が夕食の支度をしている間、ギャルソンたちは農協までひとドライブして駄菓
子を買い込んできた。変わり映えのしない、店の残りの寄せ集めなのに、山で皆と食べる
料理は格段においしい。
 保子と私が先に風呂を使い、二階の部屋に早々に引き上げた。暖房は一回の石油ストー
ブだけなのに、吹き抜けの造りで二階も充分温かかった。
 ギャルソンたちは相当遅くまで起きていたようで、翌朝話を聞くと、霜月の夜更け、外
で焚き火を燃やし、鹿の鳴く声を聞いていたといった。
 朝食のあと、私は阿部にリクエストしていた道具を出してもらった。小学生時代に遊ん
でいたソフトボールをバットで打つ感触を思い出したいと、バットとボールを持ってきて
もらっていた。ログハウスの裏には、テニスコートとして使えるくらいの広さの空地があ
り、阿部にボールを放ってもらって、私はバットを持って構えた。
 ストライク。しかし当たらない。ストライク、ストライク。ようやく当たった。思った
ほど飛距離は出ないが、念願は叶った。
「お宅のギャルソンって、皆いい人ばかりですね」
保子が言った。
 その保子がパリに帰った後、阿部は
「保子さんて、変わった人ですね」
と言ったが。
 篠田が十二月に自分の店を開くらしいと、阿部から伝わってきた。そんなことなら最初
から言ってくれればいいのに。篠田のためにシェフランチというふれこみのメニューも発
表して雑誌にも載せている。
 人は言いにくいことこそ、早く言わなければならない。それは大抵聞かされる側にとっ
て、早めに言ってもらいたい内容であることが多い。しかし現実には一日延ばしにしてし
まうのだ。
 篠田がそのことを告げに来たのは十一月の末だった。篠田の店は、父親のうどん屋をあ
まりお金をかけずにレストランに転向するもので、クリスマス前には開店すると言った。
「もし僕のところで作って配達できる料理があれば、使ってもらいたいんてせすが」
「考えておきます」
 篠田はRive Droite と同じ食器を使いたいというので、東京の取扱店を紹介した。
 篠田が開いた店のメニューには、Rive Droite とそっくり同じの田舎パテや鴨のコンフ
ィや豚の蜂蜜ローストが載っていた。
                                  (文中仮名)