Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 14, 2012)

2012-10-14 | 演奏会・リサイタル
昨日の土曜日はマチネにHDの『愛の妙薬』を演奏して夜には『オテロ』、
そして今日はカーネギー・ホールでの演奏会、、と、とっても働きもののメト・オケです。

これまでこのブログで、メト・オケの演奏会の特徴が”寄せ鍋プログラム”である点
(一年に三度開催される演奏会であるけれども、三つ合わせて寄せ鍋なのではなく、一つの演奏会の中ですでに寄せ鍋状態!)
を指摘してきましたが、それ即ちレヴァインの意向であったことは疑いの余地がありません。
しかし、今シーズン第一弾のメト・オケ・コンとなる今日の演奏会のプログラムは、こりゃ一体どうしちゃったのか?
ワーグナーの『タンホイザー』序曲、同じくワーグナーの『ヴェーゼンドンク歌曲集』、
そしてリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』という、まことに統一性のあるプログラムで、
これは絶対にレヴァインが決めたプログラムではないな、、と思います。
レヴァインが手術やら何やらでメト・オケ・コンどころの状態でなくなっている間に、
ルイージが決めたものではないか、と私は推測するのですが、
プログラムを決めておいてから、本当にスケジュール上のコンフリクトがあったのか、
思いの外、ヘビーなプログラムにやる気が失せたか(自分でプログラムしたくせに、、、)、
相変わらずレヴァインに対しての特別待遇を可能にするためにルイージに対する態度が煮えきらないメトに、
段々自分が利用されている気がして、無理して都合つけるのが馬鹿らしくなって来たのか、
なんとこの大変なプログラムを指揮するのは、昨日の夜の『オテロ』に続いて、セミヨン・ビシュコフです。

おそらく同時期にメトの全幕公演を指揮している指揮者のなかで、
唯一、このプログラムを振ってきちんと形に出来るのは彼しかいなかろう、ということでこうなったんでしょう、、、
『愛の妙薬』のベニーニはベル・カントものに関しては良い指揮者ですが、ワーグナー&シュトラウスは守備範囲外ですし、
『トロヴァトーレ』を振ってるカリガリ博士(カレガリ)なんか連れて来た日には、
もう何もかもが崩壊!ということになってしまうこと必至なので、ビシュコフは妥当な人選なんだと思います。

昨日の『オテロ』の感想にも書きました通り、5年前のビシュコフの『オテロ』での指揮はメト・オケの良さを活かした自然な演奏になっていて、
私は結構好印象を持っていたんですが、なんだか昨日の公演の演奏はビシュコフらしさを出そうと頑張りすぎて失敗してしまったというか、
エキセントリックな味付けが炸裂し、まだシーズン二度目の公演ということもあるからかもしれませんが、
今一つオケの方も咀嚼できていない感じで、どうしちゃったんだろうなあ、、と思いました。

それを言えば、ルイージも、数シーズン前のタッカー・ガラみたいな単発ものの指揮や、
レヴァインの体に激しくがたが来出した頃に代わりにピットに入って振ってた頃はすごく良い演奏を出していたのに、
なんか、首席指揮者に任命されて、自分のカラーを出し始めた頃からでしょうかね、私にはぴんと来なくなりました。
いや、ぴんと来なくなったどころか、音楽監督としての演奏レベルを期待した場合、
その期待水準以下、と感じられるようなものまで出て来るようになって、
リング・サイクルもなんだか細部ばかりにこだわったちまちました音作りで、
作品の大きなアークを見失っているなあ、、と感じさせる、まったくもって私の苦手なタイプの演奏だったんですけれども、
そういうテイストの問題を脇においても、これまではありえなかったような大きなミスがオケから飛び出したりしていましたし、
なんかこう、”この指揮者が指揮してたら絶対ミスは出来ない、、。”と奏者に思わせるような厳しさとか緊張感がないんですよね、ルイージには。
こんなことではとても次期音楽監督は任せられん、、と思います。
これは別に私だけがそう思っているわけではなくて、私が懇意にしているヘッズ友達のほとんど全員が
”He's no Levine. (彼はレヴァインとは違うよな。)”と口を揃えて言ってます。

新しいアイディアを試みたり、人と違うことをやるのは結構なんですけれども、
与えられた時間との兼ね合いから、現実的にそれを徹底出来る力が自分にあるか?という、その辺の分析が、
昨日のビシュコフとか最近のルイージにはもうちょっと必要なんじゃないだろうか、、と感じたりもします。
それを言うと、限られた準備期間内で、明らかに普段のメト・オケとは違うサウンドを作って、
それでなおかつ良い結果を出せたムーティ(『アッティラ』)とかラトル(『ペレアスとメリザンド』)はやっぱり力のある指揮者、
ということになるんだと思います。

この二人ほどの徹底した実力やオケのメンバーを動かすカリスマ性がない指揮者は、
思い切ってある程度メト・オケに好きにさせる、そういう演奏を試みた方が概して結果が良い。
オケが初めて演奏する作品やあまり慣れていない作品ならそうも行かないでしょうが、
『オテロ』とかリングみたいに結構な頻度で上演されている作品なら、
はっきり言って、下手な指揮者よりよっぽど作品のことを良く知っている奏者がこのオケにはいるんだから、
カリガリ博士みたいなオケを撹乱してしまうような指揮者は問題外ですが、
一定以上の技術がある指揮者なら、それなりに結果が付いてくるし、
一時期のルイージや、5年前のビシュコフの『オテロ』はそのアプローチが成功していた例だと思うのです。

今日のビシュコフが昨夜の『オテロ』みたいなことをやり始めると、危険だな、やだな、と思っていたのですが、
『オテロ』に加えてこの演奏会まで細かく手を回す余裕がなかったんでしょう、
それがゆえに、幸運なことに今日の演奏会はメト・オケの持ち味が良く発揮された、近年で最もエキサイティングな演奏になりました。

私がメト・オケ・コンで座るボックスはほとんどがサブスクライバーで占められているため、大体毎回同じメンバーに囲まれて鑑賞することになるんですが、
その中に1人薀蓄語るのが好きなおじいがいて、今日も演奏開始前から、周りの人間に
”ヴェーゼンドンクはわしの大好きな作品だから今日は良い演奏じゃないと困る。”と、ぶちあげてます。

演奏会をキックオフしたのは『タンホイザー』序曲で、演奏が終わった時、
同じおじいが”わしにはゆっくり過ぎる!”と言ってあまりお気に召さない様子でしたが、本当、人の感覚は色々だな、と思います。
確かに今日の演奏は早いか遅いかと聞かれればどちらかと言えば遅い方に入るのでしょうが、別に止ってしまいそうなほど激オソな訳ではありません。
だし、私なんかは、最近のティーレマンの演奏(バイロイト)みたいのは、なんかせかせかしてせわしないなー、と思います。
なんだか聴いてるうちに、じっと座ってないで、家の掃除か何かを始めなければならないような気がして来ます。
今日の演奏では、巡礼の合唱の主題のところなんか、息の長いアークがある演奏で、
こういうタイプの演奏は、金管セクションがへたれなオケが演奏したら、目も当てられないことになるかもしれませんが、
メト・オケのブラスが集中力を発揮してビシュコフの指定しているテンポについていきつつ、がっちりとした美しい響きを出してくれていたので、
こういう演奏は力のある歌手がゆったりめのテンポで歌いあげているような雄大さがあって私は好きです。
遅いテンポでも、バックボーンがしっかりしている演奏なら、私は何の問題も感じませんし、
どの速さがある作品にとって最適か、というようなことは、私にはあまり意味のある議論に思えません。
どんなテンポであっても、そこにきちんとした緊張感・ドラマが保持されていて、
その速さをきちんと支えるものが存在していればそれで良いのであって、
(そして、あまりに度を過ぎた遅過ぎ・早過ぎな演奏は自ずとそこから外れていくと思うので、、)
その点はきちんとクリアされていたと思います。
それから、今日のコンマスはチャンさん(『タイス』のHDでヴァイオリン・ソロを披露していた演奏者です)でしたが、
特に第一ヴァイオリンのセクションの音色が本当、素晴らしかったです。
メト・オケの弦セクションが出せる最高の美音に部類されるような音色が今日は何度も飛び出ていて、
『アルプス交響曲』ではあまりの美しさに息が止るかと思うような箇所もありました。
それから、つい最近聴いたシカゴ響の『オランダ人』序曲が記憶に新しいので、その絡みで言うと、
このようなオケの演奏会の場であっても、メト・オケがオペラ絡みの曲を演奏する時、
必ず演奏の後ろに物語が感じられ、そのままメトのオケピに入っても全く違和感のないようなスタイルの演奏をするところも、
シンフォニー系のオケの演奏やCDで聴く演奏ではなくて、
オペラの生での全幕演奏こそが基準になっている私のようなオーディエンスにとってはポイントが高い。
演奏が終わったらそのままばったりと虫のように奏者たちが死んでしまうのではないか、、とこちらが心配になるほどに、
”聴かせたろうやんけ!”ムードでがしがし演奏されるよりは、
こういう、曲が終わってもまだ全幕演奏できまっせー!位の余裕をオケに感じるような、
そう、まさにメトの全幕公演の序曲を聴いているかのような、何気ない、ちょっと素っ気無い位の演奏の方が私は好きなんです。
それは別にワーグナーの作品だけでなくて、イタものでも同じ。

でもこの世の中には逆にそのあたりが物足りない、と感じる人も当然いて、私と親しい間柄の人の中には、
”普通演奏会でこの曲を演奏する時には金管の旋律、それから弦が入ってくるところなど、
随所にアクセントを効かせたりするものなのに、それが全くなくて、なんかすらすらーと抑揚なく流れていくから、瞑想のための音楽みたいだった。
トイレットペーパーからからからから、、と紙を引っ張って、気が付いたら足元にごっそり溜まってた、、みたいな光景が思い浮かんだ。”
というようなことを言っている人もいましたね。
この下品な表現で、このブログをずっと読んで下さっている方なら、それが誰かはすぐにおわかりになると思いますが。

ほんの少し欲を言えば、最初の一曲ということで、まだ空気がほぐれていないというか、
ちょっとフォーマルで固さが若干感じられる部分はありましたが、まあ、それでも私は悪くない演奏だと思いました。

ああ、それにしても、今日の序曲みたいなので始まる『タンホイザー』をメトのオペラハウスで聴きたいな、、。
しかし、今調べてみると『タンホイザー』は2004/5年シーズン以来、一度も舞台にかかってないんですね。
しかも、メトの舞台にかかる回数が多い演目のトップ50演目(ちなみに『タンホイザー』は合計470公演で第17位)の中で、
最も長い間、上演されていない演目であることもわかりました。
そう言えば、今日のメト・オケ・コンには珍しくゲルブ支配人の姿があったことだし
(彼って本当このメト・オケ・コンのシリーズに顔を見せないんです。オケ単体=人気歌手のいない場には興味がない人なんだな、と思います。)、
そろそろ再演をお願いしたいと思います。

続いて『ヴェーゼンドンク歌曲集』。
この作品に関しては、当初、エヴァ・マリア・ウェストブロックの登場が予定されていたんですが、
公演の5日前くらいでしたか、彼女が体調不良のために降板するという連絡が、カーネギー・ホールからメールと電話の両方でありました。
しかし、彼女のオフィシャルサイトを見ると、今ちょうどROHの『ワルキューレ』に出演中(9/26、10/4, 10/18, 10/28)で、
今日の演奏会は言ってみればそのど真ん中に落ちているんですね。
公演日にはかぶっていないし、4日と18日の間は結構日が空いているので、
当初はNYに来てまたロンドンにとんぼ返り、、ということを考えていたのでしょう。
実際、10/4の公演後にあまり体調が思わしくなくその後のROHの公演のために大事をとってキャンセルを決めた、ということなのだとは思いますが、
もしかして、レヴァインやルイージが指揮するならいざしらず(この二人とはそれぞれ先々シーズンと先シーズンのメトの『ワルキューレ』で
一緒に仕事をしてますので、そもそもその縁で今日の演奏会にもキャスティングされたのではないかな、と思います。)、
ビシュコフならトンズラしても、ま、いっか、、、ってなことをまさか考えてたりはしないですよね、、、。

で、このプログラムで急な交替を快諾してくれるといえば、あの人しかいませんよ!というわけで、ミシェル・デ・ヤングなんです。



いやー、デ・ヤングはもうすっかりメト・オケ・コンの”カバー”化してますね。
彼女は2006/7年シーズンのメト・オケ・コンでデセイが演奏会の5日前にキャンセルを発表した際にも、穴埋めしてくれたことがあって、
彼女はメゾですし、さすがにデセイと同じレパートリーは歌えないので、あの時はプログラム自体もがらっと変ったんでした。
『ヴェーゼンドンク』は彼女のレパートリーにも入っているので、今回はそのまま引継ぐ形になるのですが、
『ヴェーゼンドンク』とデ・ヤングの組み合わせって、何か覚えがあるぞ、、と思ったら、
その5年前の交替劇の時にアンコールで歌ったのが『ヴェーゼンドンク』の”夢”だったんですね。
ブログって書いとくもんだな、とこういう時に思います。

デ・ヤングが舞台に登場して来て、そういえば彼女を聴くのは何か久しぶりだな、、と、妙なノスタルジーを感じてしまいました。
こう言っては何ですが、私の考えでは、彼女もゲルブ支配人が実際にキャスティングに力を持つようになってから
(彼の任期の最初の時期はまだヴォルピ前支配人が決定した演目・キャストによる上演だった。)
冷遇されるようになった歌手のグループ(他にルース・アン・スウェンソン、一時期のソンドラ・ラドヴァノフスキーやヘイ・キョン・ホン、エリザベス・フトラル、
ドウェイン・クロフトあたりの名前が浮かんで来ます。)に入っていて、
レヴァインが結構見込んでいたこともあって、以前はワーグナーの作品などでよくメトの舞台に立っていたのに、
最近では全くメトでキャスティングされておらず、いつの間にかロースター(カバー要員も含めたアーティストのリスト)からも姿を消してしまっています。
ということで、彼女の歌声を最後にメトで聴いたのは2008年の『トリスタンとイゾルデ』ですから、4年ぶりに接する彼女の歌唱です。

彼女が再びゲルブ・エラのメトに戻って来たい意志があるのなら、二つ改善しなければならない点があります。
まず第一点は特大のビブラート。
彼女は昔からこんなすごいビブラートだったかなあ、、、、?ここまでではなかったような気がするのだけれど。
しかも今日はピッチも何となく不安定で、ビブラートの真ん中の線が完全には歌うべき旋律と重なっていない感じがして、
聴いていて、なんだかすごく収まりが悪かったです。
後、彼女は先述した通り、メトでもワーグナーを歌っているんですが、
そのレパートリーを保って行く為にはそうしなければならない!と彼女自身が思い込んでいるところもあるのか、
歌唱が常に必要以上にパワフルで、悪く言うと力任せな感じがします。
この作品は『タンホイザー』の演奏が終わった時にごっそり奏者が退場したことでもわかる通り、実はそんなにオケが厚い作品ではないし、
パワフルに歌うことに向けられたエネルギーを、もうちょっと内省的な表現の方に向けた方が良かったのにな、、と思います。
(ちなみに、ワーグナーの作品ではあるのですが、ワーグナー自身が一曲手がけた以外は、オケ用の編曲は別の人間の手によるものです。)
そして第二点目は、まさにHideous!と形容するしかない、衣装センスです。
彼女は長い(多分天然の)ブロンドのちりちりロング・ヘアーと堂々とした体格(背も結構高いのではないかと思います。)が相まって、
遠めで見る分にはある種の美しさを持った人ではあるし、すごく感じの良いポジティブ・オーラに溢れた人であるので、
その雰囲気を活かせるようなシックなドレスはいくらでもあると思うのですが、
なぜか、横に何段もレース編みのような透かし模様が入った(ふくよかな人がこれを着るとちょっと、、。)
くるぶしまでの長さのドレス(くるぶしまでの長さって、最も着こなしが難しい長さだと思う、、。)を身につけていて、
自分の体型をどれだけ最悪に見せられるか?というコンテストに参加中なのかと思いました。
私は現支配人の、歌唱力をも犠牲にする極端なビジュアル志向には大反対ですけれども、
だからと言って、自分をエレガントに、最も美しく見せる方法を知らなくても良い、とは言ってません。
どれだけ彼女に実力があったとして、これではまず支配人に”メトに帰っておいで。”と言われることはないでしょう。
緊急に開始してください、垢抜けるための努力を!!!!


そして今日の演奏会のメイン・ディッシュ、『アルプス交響曲』。
いやー、これは理屈抜きに本当に楽しい演奏だった!!!
私がシュトラウスを好きな理由の一つは、あんなにシリアスであんなに甘美であんなに官能的な曲を書ける能力がありながら、
それで全部押し切ってしまうのは照れるのか、不粋だと思うのか、
しばしば作品(こういうオケものでもオペラでも)の中で、
”でも、やっぱりこういうのも止められないなあ。”とでも言いながら舌をぺろんと出しているように思えるような、ひょうきんな部分を見せずにおれない点です。
シュトラウスは『ばらの騎士』とか『アリアドネ』はもちろん、例えば『エレクトラ』みたいな作品でもそれをやってしまうので、”えー?!”と思うんですけれども、
もうこの『アルプス交響曲』ではそんな私のシュトラウスの大好きな一面が爆発してます。
本人もすごく楽しんで作曲したんじゃないかな?そんな風に感じる曲です。

曲は最初から最後まで登山(もちろんアルプス)での情景を描写したもの、、
と書くと、非常に身も蓋もなく、”そんなもの聴いてどこが面白いのか?”と言われそうですが、今日のような演奏を聴くと”すべてが。”と答えたくなります。

まず、シュトラウスのオーケストレーションのその素晴らしいこと!!
シカゴ響の演奏会の時にフランクの交響曲で若干退屈した、ということを書いたと思いますが、
今日のこの演奏を聴くと、作曲家によるオーケストレーションの表情の豊かさのレベルが段違いなのが一つの原因じゃないかと思います。
山登りですからね、水がさらさら言ってたり、カウベルがからから音を立てたり、雷が来たり、、、なわけです。
そんなことを音にして、ホールですまして聴いて何が面白いのか?と思う向きもあるかもしれませんが、
ここまで徹底したオーケストレーション(もちろん、それはオケがきちんとそのオーケストレーションを見事な音にしてくれているからですが)、
しかも、その中に常に美が生じている種類のオーケストレーションを聴くと、
単なる山登りの情景を音で聴いているだけではなくて、、段々自然とチャネリングしているような感覚が起こってくるんです。
こんなこと書いて、危ない人化してますか、私?ここはニュー・エージ・ブログか?って感じですか?
いや、そんなことないですよね。
多分、誰もが、深い森に囲まれた時、海の塩っぽい空気を胸いっぱい嗅いだ時、地平線に広がる草原を見た時、そういう感覚を持ったことがあるはずだと思います。
そういう感覚は大抵 -少なくとも私の場合は- 自然の中に身を置いた時に起こるものですが、
この作品は音でそれを体験させてくれる、、、そこがすごいところです。

オーケストレーションを駆使して様々な情景をあまりに的確に表出してくれるので、
プレイビルとかウィキとかには、何が表現されているのかとか色々なことが書いてありますが、全然そんなもの読む必要ないです。
オペラの作品も作曲している人で、オーケストレーションで情景を描く二大達人といえば、私はシュトラウスとプッチーニだと思っているんですが、
あらためてやっぱりすごいなあ、、と思わされました。

個々の楽器/セクションの演奏は本当にどれも素晴らしい出来で、どれかだけに言及するのはフェアじゃない気がする位なんですが、
先述した通り、第一ヴァイオリン・セクションの今日の音色の美しさは本当度肝抜かれました。

演奏にほとんど1時間かかるこの曲、曲が終わった時には、ビシュコフやメト・オケのメンバーと一緒にアルプスに登って帰って来た感じがして、
快い疲れすら覚えたほどです。
ビシュコフのこの作品での指揮は、この作品に慣れているとは言い難いオケに、必要最低限の指示を与えながらも、
頭ごなしに彼のやり方を押し付けるのではなく、オケのメンバーが先に歩いて行くのを、後ろからがっちりとサポートしながら付いて行く登山者のようでした。
それでも、昨夜の『オテロ』に続いてこの長丁場の作品で神経を使い切ったと見え、
指揮台から降りたり舞台挨拶に出て来る時のビシュコフは本当よろよろで、そのまま倒れなきゃいいけど、、という感じでした。
しかし、オーディエンスの方は、彼が倒れても知るか!位に盛り上がっていて、
ビシュコフはもうこれで終り、と思って引き下がった後も、再度舞台に姿を見せるよう要求する拍手が多くの人から出てました。
かく言う私もそんな1人。
こんなに盛り上がったメト・オケ・コンは久しぶりです。

それにしても、NYにいながらにしてアルプス登山を満喫出来るなんて誰が想像したでしょう?
シュトラウスとビシュコフ、メト・オケに感謝。


The MET Orchestra
Semyon Bychkov, Conductor
Michelle DeYoung, Mezzo-Soprano replacing Eva-Maria Westbroek

RICHARD WAGNER Overture to Tannhäuser
RICHARD WAGNER Wesendonck Lieder

RICHARD STRAUSS Eine Alpinsinfonie, Op. 64

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
ON/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ ミシェル・デ・ヤング
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Michelle DeYoung ***