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とりあえず物語的ななにかをひとつ…2

2006-01-29 23:25:39 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 ふと思い立って、新宿コニカミノルタプラザ宮下俊一写真展「Partition」を観に行く。


松代と時期はかぶっていないものの、宮下氏も金村修ワークショップの受講生だったので、正直そういう縁もなくはなかったのだが、もしまったく無関係の作家だったとしても、観に行ったであろうと確信を持って断言できる。また、もっと多くの人々の目に触れてほしい作家の一人でもあるし、個人的に今後の活動が非常に楽しみな作家の一人でもある。展示については、自分なんかがだらだらと語るより、やはり実際に観ていただきたいのだが、ポストカードから想像していたほど抽象的ではなく、どちらかといえば具象的な作品が多めで、親しみやすいとまでは行かないまでも、決してとっつきにくい展示ではなかった。あくまでも個人的な趣味で言わせてもらえば、同時開催されている展示の中で、最も気に入っている展示だった。いや、ひいきの引き倒しになりかねないのを承知で言わせていただくならば、質的にも一番よかったと思う。会場では宮下氏とも少しお話したのだが、彼の作品はやはり銀塩ならではの表現で、印刷媒体では非常に再現しづらいし、また作家の意図も表現しづらいと思う。もちろん、階調表現力の乏しいデジタルでは複製にもなりはしないのだが、そういう表現を可能にするだけの技術を持っているというのがかなりうらやましい。まぁ、そうなると作家の表現を堪能するためには、どうしてもオリジナルプリントを鑑賞しなければならなくなるし、今度は展示環境という問題も発生してくるのだが、写真でもそういう方向性で活動する作家が増えてほしいと思うところだ。


話は少し前後するが、展示を観に行く途中で連絡があり、あまりゆっくりしている間もなく会場を後にする。数日前に浮上した案件が急展開したということで、とるものもとりあえず知人と合流し、そのまま打ち合わせというあわただしさ。まぁ、打ち合わせの中身は新たな状況の確認と、それに応じた方針変更の磨り合せといったところだが、どちらかといえば連絡がメインだったので比較的簡単に終わる。


 とはいえ、自分も知人もオタクなので、用件だけで話が終わるはずもなく、しばらくだらだらと話をする。知人も美術方面には多少なりとも興味があるので、やはり話のメインはさっきまで観ていた展示となるのだが、その前にコニカミノルタがカメラ事業とフォト事業から撤退した話で盛り上がるのも、またオタク的といえるだろうね。


さておき、知人に宮下氏のポストカードを見せた感想は、まぁ「ちょっと高尚過ぎやしない?」というもので、さもありなんというところではあった。ただ、興味深かったのは、知人が「写真を知らない(鑑賞経験の乏しい)鑑賞者にとって、こういう『物語的要素のまったくない』写真は、どう対処していいのかわからなくなる」と指摘した点だった。もちろん、いかなる鑑賞者を想定するかという問題はあるのだが、もしも鑑賞経験の乏しい鑑賞者のみが評価を下すのであれば、こういう「お前の好きな作品(そしてお前が制作するような作品)は、きわめて民主的かつ徹底的に社会から排除されるだろう」という指摘については、残念ながら全面的に同意せざるを得なかったのである。知人はサロン的なインナーサークルによって芸術分野がリードされることに対して、きわめて強烈な嫌悪感を抱いており、同時にその害悪についても舌鋒鋭く切り込んでくるのだが、逆にコニカミノルタプラザのような存在が宮下氏に展示の機会を与えることの意味についても十分に理解しており、物語装置の代替物としての権威装置が必要であることも認めている(不承不承ながら、ではあるが)。もちろん、完全無欠のシステムなど存在はしないのだが、それにしても「もう少し中庸的ななにかいい方法」はないものかと、思案に暮れてしまうのであった。


そういえば、コニカミノルタがカメラ事業とフォト事業から撤退を発表した時、一部の銀塩愛好者は「本当に芸術を愛好する人々の手によって感材は作られ続けるから大丈夫」と高らかに宣言したが(実際に、フジフイルムが供給の継続を表明した)、こういう「表現の多様性を担保する制度や装置としてのメーカー」という存在について、多少なりとでも思いをめぐらせた上での発言だったのかどうか、いささか怪しいような気がしてならない。コニカミノルタプラザは、ニコンサロンと並ぶ若手写真家の登竜門として、非常に重要な社会的機能を果たしてきたが、今後もこれまでのように「銀塩写真の振興活動」を継続してくれるかどうか、率直に言って心もとない。すでにニコンサロンはデジタル作品(あるいはデジタル処理された作品)が主流となっており、当然ながらコニカミノルタプラザも同様の方針転換を図るだろう。そして、そうなってしまったが最後、たとえ「本当に芸術を愛好する人々の手によって感材は作られ続けるから大丈夫」だったとしても、物語装置に依拠しない銀塩作品に発表の機会がどれだけ与えられるのか、それこそ「民主的かつ徹底的に社会から排除される」のではないかと、そう思えてならない(とはいえ、そうなっちゃうと今度は「銀塩写真という物語装置」が機能し始めるので、それはそれでなんとかなりそうな気もするんだけどね)。



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