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少数報告

2006-03-18 23:17:57 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

これまでのあらすじ


知人から過去の恥ずかしい写真が収められたポートフォリオを返却された松代守弘は、捨てるには忍びないものの、手元に置いとくのも機分が悪いということで、どうにもこうにも弱り果てていた。


ごりごりのストレートフォトグラフィ原理主義者であり、また実践者でもある松代にとって、下手な小細工を弄して下らぬ作家的意図を前面に押し立てた写真を撮影していたという過去は、闇に葬り去ってしまいたい汚らわしい黒歴史そのものであったのだ。
しかし、
ビッグブラザーでもあるまいし、過去を改変したり、ましてや抹殺できるはずもなく、松代はただ途方にくれ、ひとりたたずむのであった。


つづく


基本的に、最近の自分はアルフレッド・スティーグリッツからF64にいたる、ストレートフォトグラフィ写真史の流れから捉えた解説はこちら)の流れに則って撮影している。だが、ストレートフォトグラフィ自体がピクトリアリズムへのアンチテーゼから生まれただけに、ピクトリアリズムという概念というか芸術運動を支えていた写真的技法が陳腐化していくに伴って、ストレートフォトグラフィの概念もまた大きく揺らぎ、さらには存在意義すら失っていくこととなる。
実際、こちらではストレートフォトグラフィについて「現在では、その本来の目的はまったく失われ、技巧を用いないというその特質のゆえに、かえって、あたりまえの、平凡でごく一般的な表現手段として、アマチュアの間でも普及している」とも解説しているし、また飯沢耕太郎氏第2回写真新世紀の選評において「ストレートフォトグラフィって、最近何もいじってない写真のことを言ってるけどさ、『素直に気持ちが出ている。』そーゆーのを言うんだよ」と、旧来の定義とはいささか異なる精神的なストレートフォトグラフィ観を披露しているように(もっとも、飯沢氏はピクトリアリズムの再評価を熱心に進めているので、この発言についてはある種の「戦略性」が含まれている可能性がある)、もはや単なるレッテルとしての意味すら喪失した言葉であるかのような状況とさえいえよう(もちろん、これらの解釈には強烈な違和感を覚えるが、ここでは触れない)。


しかも、ピクトリアリズム的な流れが絶えたかというと、そんなことはぜんぜんないわけだったりもする。確かに技法は変化したものの、その絵画志向的な精神は、現在に至るまで脈々と受け継がれている。それに、カーボン印画やゴム印画法、オイルプリント、ブロムオイルなどのさまざまな技法もまた、古典技法として一定の支持者を獲得し続けているのだ。
古典技法ではないものの、こちらのピクトリアリズム解説にも記されているようにソフトフォーカスをはじめとする技法を駆使して幻想的な映像を「創出する」作家も多く、また作家的意図を表現する観点からボケもう少し詳しい解説はこちら)に異様なまでのこだわりをみせる作家は少なくない。


挙句、ボケがいまいちなデジカメやCGにもボケを後から加工できるようになったり専用アプリまである)、さらには日本発の新たな写真表現(Bokeh)として、ストレートフォトグラフィの本場ともいえるアメリカでも広く認知されているのだから、ピクトリアリズム的な流れは「写真表現において主流となっている」とすら言えるだろうね。


まぁ、さすがにAlex Shechkovほどになると、ボケがどうこうとかいった次元を軽く超越して、マニピュレイテッド・フォトグラフィの領域に達しているわけだけどね(ただし、政治性、批評性の有無という点が微妙なんだけどさ)。


さておき、厳しい批判にさらされ、一時は衰退したかに思えたピクトリアリズム的な流れが、なぜ絶えることなく現在まで受け継がれ、それどころか形を変えつつ隆盛を誇っている理由だが、やはりそれは「わかりやすいこと」に尽きるのではないか。そして、その「わかりやすさ」は鑑賞者にとってだけではなく、製作者にとっても「自身の制作活動を把握しやすくなる」という、ある種の「わかりやすさ」をもたらしたと考えている。


ピクトリアリズムにしても、絵画的写真にしても、芸術写真にしても、あるいはマニュピレイテッド・フォトグラフィにしても、撮影者の「作家的意図」を前面に打ち出し、そして「作家的意図に従って観客を誘導する」ことが重要視されているのは変わらないだろう。
作家は観客にみせたいものだけを選択的に作品へ取り入れ、あるいは「みせたくないものを作品から排除」し、また観客も作家の意図を汲み取って「作家のみせたいものを観、みせたくないものを無視する」ことで、作家と観客との間で世界を共有することが可能となる。その世界は互いに居心地のよい、いわば「安心安全かつ安定した世界」かも知れないが、作品の受け止め方は作家の用意した「たった一つの冴えたやりかた」しか存在しない世界でもある。
しかし、作家と観客との共犯関係がなければ成立しない世界に、新たな発見や驚きは存在するのだろうか?



作品を制するものは解釈を制する
解釈を制するものは観客を制する


この点については、古くはベンヤミンが厳しく批判している。また、長谷正人氏も撮影者の意図を写真に反映させるのではなく、写真の持つ「無意識の知覚」とでも言うべき機能、つまり「撮影者の意図しなかったもの」が写ってしまうことをより積極的に評価すべきと論じている(映像という神秘と快楽―“世界”と触れ合うためのレッスン)。長谷氏の論考にはとかくいろいろと引っかかるところも多いとはいえ、少なくともこの点については非常に共感するところが多いと受け止めている。個人的にも、撮影者のみせたいもの「だけ」に、鑑賞者の視線を誘導しすぎることについては、やはり批判的に捉えざるを得ない。


どうせ他人にみせるなら、作家自身でさえ気がつかなかった世界を、素材編集から展示に至る過程で再発見し、また観客の側からも「作家の意図を超えた新たな解釈」を提示する余地のある作品をみせたいと、そう考えているのだ。


展示初日まであと7日



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