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変人第七号

2006-02-18 23:38:09 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月
ちょっと時間も空いたし、知人と合流する前に撮影でもしようかと用意をしていたら、見る見るうちに空が曇ってきた。

というわけで、仕方なく撮影は中止。まぁ、こういう日もあるさね…

静岡の日本代表戦が気になりつつも、夕方にギャラリー白石で知人と合流し、新山拓展「聖曲の地へ」を鑑賞する。
日本画については本当に門外漢なので、とにかく知人の話についていくのが精一杯のところだが、こういう形で刺激を受けていないと「知の引きこもり」状態に陥ってしまうので、機会を見つけては混ぜてもらうことにしている。
でまぁ、肝心の作品は山岳風景なのだが、あくまでも「山」そのものがテーマで、よい意味で「山しかない」ため、実は山岳写真やその類が苦手な自分は、ちょっと途方にくれてしまう。というか、もっとはっきり言ってしまうと「ちょっと高尚過ぎやしない?」というもので、あぁ「あのときの知人はこういう気分だったのか」と、追体験したような気持ちになってしまう。
山も日本画も知らない(鑑賞経験の乏しい)鑑賞者にとって、こういう『物語的要素がありそうでまったくない』というか、実は物語要素のように見えるあれこれが思いっきりフェイントのような作品と1対1で向き合ったとき、ブロックするどころか足が止まってしまう。まぁ、岩絵の具を盛ってエンボス状にしている表現とか、非常に優れた色彩感覚と力強くも荒さのないグラデーションとか、そういう技巧的な部分にフックはあるので、ガラスの壁状態ではなかったのが救いといえば救いなのだが、中途半端に理屈っぽい人間にとってはタフなひと時だったように思える。
なんちゅうか、猫ひろしのようで実は友近のコントだったような、そういう展示でございました。

その後、知人に夕食をご馳走になりつつ、別の知人の作品集を見せていただく。
率直に言って、知人からあらかじめ聞かされていた話が「ちょっと微妙」だったし、その前にいささかタフな時間をすごしていたので、作品を見るまではかなり警戒していた。だが、予想に反して作品の傾向が自分の好みと非常に近かったので、本当に安心した。
知人の知人というポジションの作家ともなれば、なんだかんだ言っても「赤の他人」的な付き合いはできないし、かといってべたべたした関係にもしたくないわけで、それも「客観的な評価」と「主観的な好み」が著しく乖離していた場合は、まぁかなり「大人の対応」を迫られてしまうのだが、そういうことから逃れられたのは本当にありがたかった。ただ、ここから作家的な関係が発展していくかどうかという点になると、自分だけではなんとも言いかねる部分もあるし、とりあえずは現状維持というところだろうなぁ~
学生時代のサークル活動や同人活動でもいくつかの苦い経験はあるし、中には本当に高い授業料を払ったこともあるので、こういう時にはどうしても「まずガードを固める方向」で対応したくなってしまう。もちろん、知人は非常に信頼できる人物だし、その作家氏とも制作者としての相性はよさそうなので、まぁいずれ機会を見つけてお会いさせていただければよいかとは思う。

まぁ、他にもいろいろとやり取りはあったのだが、個人的に面白かったのは知人が「制作ではなく、製作することを自明とし」つつ、オタクという小さなカテゴリーを越えた「産業的な観点からの製作」について、やたら熱心に語り始めたところだったりもする。

知人に言わせると、プロとアマとの違いは技術的な巧拙とか、あるいは創作物(もちろん「二次創作も含みます」よw)によって商業的な利益を得ているかどうかなんて部分には存在せず、ただひたすらに「産業としての意識があるか否か」ということになる。つまり、例えば技術的に高度で、しかも利益をもたらしている作品であったとしても、それが産業として社会の要求に応じていないのであれば、単なる個人的なガレージワーク、つまりアマチュアの域を出ないと、そういうことらしい。

ちょっと意地悪な気持ちになってしまったので、自分は「アマチュア写真家たちの関心は次第に35ミリカメラに移っていったのだが、プロの世界では、カラー印刷が盛んになって、大判、中判サイズのカメラへの比重はかえって高くなっていった。製版が大判フィルムを要求したからである。プロの写真家、カメラマンのあいだでは「印刷を前提とした写真」つまり写真は印刷されマスコミュニケートされなければ意味がないということが流行のように言われていて時代だから、印刷の技術が写真の撮りかたにまで直接影響していたのだ。印刷の製版技術者がカラー印刷は35ミリフィルムでは駄目だと言えば、これはなんとしてでも大判フィルムを使わざるを得なかった」という元朝日新聞写真出版部長吉江雅祥氏の回想を引き合いに出しつつ、作家は社会的な要請によって作家自身の表現手段まで決められてしまうのかと、そういう具合にまぜっかえした。
案の定というかなんと言うか、知人は「もちろんそのとおり」と答えた上で、だから「松代のやってるようなことは自己満足であり、お作家様ごっこに過ぎない」と畳み掛けてくる。

この段階で、知人の目的は「卓上プロレス」だということに気がついたのだが(作家氏を連れてこなかった理由も判明した)、食うもの食っちまってる分だけこっちが不利だし、ひとまずディフェンスを固めて相手の疲労を誘うほかないと判断。適当に話をあわせつつ、マークを厳しくしてパス(話の流れ)を切るよう努めるのだが、知人の「普通に働いてるオタクなら月に5万は趣味に突っ込めるし、人間として大事な何かを切り詰めれば月に10万だって大丈夫」発言に、不覚にも爆笑させられてしまう。
まぁ、ほんとにそのとおりというか、引きこもりのニートでさえ1体数万円するエロフィギュアをバンバン買っているんだから(いや、ちゃんとバンバン買ってる根拠はあるけど、ここではいえないにゃ)、濃ゅぅい連中は月5万以上なのかもしれないんだけど、そのことだけに引っ掛けて「展示費用だかなんだか知らないが、同じくらい回収不能な無駄金使ってるお前もそいつらと同じ」攻撃は、さすがに拙速だったと思うね。

というわけで、自分はFwにまちゃまちゃを投入し、1トップでカウンターを狙う「はぁ?」戦術に切り替え、サイドチェンジというわけでカフェへ移動した後は、完全にリズムをつかんだ攻撃を繰り出す。流れはすっかりこっちのものだったが、いかんせん食事もカフェも知人持という「完全アウェー状態」だけに、どうしてもいまひとつ攻めきれないというか、決定力を欠いたまま試合終了でドロー。

ただ、知人が指摘した「マンガは娯楽産業として確立しているのだから、生産技術の進歩と作品制作が無縁なはずはないのでは?」という疑問と、また「金銭的な利益を無視するのであれば、なおさら展示の目的性を明確にしないと、単なる自己承認欲求の発露に終わるだろう」という苦言については、重く受け止めなければならないとは思うね。

というわけで、静岡を気にしつつ帰宅し、即TVをつけると、いい試合しているじゃあぁしませんか!
これだったら、自宅でサッカー観てればよかったかも


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