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ワークショップ初日

2006-01-23 23:06:18 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

今日は今年で最初の金村修ワークショップで、先日プレイスMで伸ばした検討用のプリントなどを持参したのだが、案の定というかなんと言うか、まぁコテンパンにやられてしまい、ちょっと凹んだ。それも、全然自覚していなかった欠点を指摘されるのなら、そこにはそれとしてひとつの発見であり、またステップアップのきっかけも存在しているのだが、ある程度まで自覚していた欠点を突っ込まれるのは、単なる怠慢の産物に他ならない。まぁ、自分を責めるほかないのだけど、もうちょっとなんとかしておきたかったなぁ~


なんとかなぁれぇ~パン!(打一筒


とかなんとか言いつつも、それはそれでなんとかはなっているんですけどね。


さておき、当然ながらワークショップ参加者の間でも金村氏の連載は評判で(金村修の写真愛「記憶」)、なにかと話題に上っていた。内容に関しては日本カメラ本誌を購読していただくとして、自分自身にとっては「実作者の文章でありながら、評論的な側面を持っている」点に注目している。もちろん、実作者が評論すべきでないとか、そんな馬鹿げたドグマにとらわれているつもりはなく、むしろ積極的に実作者が評論活動を展開したほうが面白いと思っているのだ。かつて、スーザン・ソンタグロラン・バルトはあくまでも写真を撮られる側から写真を論じ(スーザン・ソンタグ「写真論」、ロラン・バルト「明るい部屋―写真についての覚書」)、また美術であると同時にまぎれもない「産業」であるという写真の特性からか、美術における表現上の差異や接点よりも文化や社会全体を巨視的に捉えつつ、ある意味「社会制度、社会装置としての写真」が論じられることが多かったように思える。個人的には、アラン・トラクテンバーグの「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」がその方面の最高峰じゃないかと思うのだが(ただし、トラクテンバーグには写真の心得がある)、いずれにしてももう少し実作者の立場から評論が行われても悪くはないのではないかと思う。ただ、1970年代には中平卓馬らが「決闘写真論」や「プロヴォーグ」を通じて、実作者の立場から特筆すべき評論活動を展開しているし、現在でも実作者の立場から評論活動を展開することには一定の意味があるとは思うのだ。


というわけで、まぁ当然のことながら金村氏にはその辺のことを期待してしまうのだが、そんな期待は無責任極まりないし、そもそもひいきの引き倒しに過ぎるといわれてしまうと、左様でございますといって引き下がるほかはないというのがなんとも悲しいところである。


これはまったくの余談なのだが、どうやらマンガと美術の関係性においても、評論的な位置づけというのは微妙なものらしい。伊藤剛氏のブログによると-「美術」と「マンガ」という対比においては、表現上の差異や接点よりも、制度的な扱われ方をめぐる議論が先行する嫌いがあります。もっともそれは、日本において「美術」が美術館や美術展などの制度の整備を通して自らを権威づけていった過程がある以上、避けられないことではあるんですが、この特集も、目次をぱっと見た限りでは、そういった制度的な問題に引き寄せられた感があります-ということなので、世界の違う話ではあれど興味深い。とはいえ、伊藤剛氏自身はかつてマンガ家を志したか何かでかなりの実作経験があり、その気になればアシスタントぐらいは務められるぐらいの技量をお持ちだそうだから(アミューズメントメディア総合学院コミック学科の講座においても、その知識と経験は大いに役立っているといううわさだ)、彼のような論者がどんどん世に出て行けば、マンガの世界もだいぶ変わっていくのだろうなとは思う。


さてさて、写真のほうはどうなっていくことやら…



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