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上月城 二度落城の悲劇 (赤松政範)・(尼子勝久・山中鹿介) 佐用町上月・ 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年03月28日 | 黒田官兵衛ゆかり

【上月城本丸跡と赤松政範の石碑】

上月城は、戦乱の世、東の織田・西の毛利のはざまで、半年間で二度落城した城です。

秀吉は1577年(天正5年)11月27日福原城(佐用城)を攻略し、翌日に上月城(赤松政範)を取り囲みます。

備前・宇喜多氏が援軍に来ますが、散々打ち負かして撤退させます。

12月3日に城内に攻め込みます。

城兵の首をすべてはね、城内の女こども約二百人を磔と串刺しにして国境にならべるなど凄惨な結末をむかえます。

これが一度目の落城です。

 この時上月城主の妻は官兵衛の妻・光の姉だったといわれています。

妻の姉がいる城攻めに先陣を務めた官兵衛の心境はいかばかりだったでしょう。

(後年、上月城主の妻の墓は九州福岡に実在することから、戦いの合間に縁者により救出されたものと思われます。)


 次に、上月城は尼子勝久を主とする山中鹿介らが入ります。

しかし、1578年(天正6年)4月、毛利方約三万の軍勢によって取り囲まれてしまいます。

秀吉や荒木村重などの援軍は、高倉山城に陣を置きますが降着状態が続きます。

 時を同じくして播磨の別所長治(三木城)が突如織田に背いて毛利氏に付きます。

これらの対応に苦慮した織田氏は、上月城救援をあきらめ、三木城別所氏攻略に集中します。

孤立無援となった上月城はついに7月4日二度目の落城となります。




上月城跡登山口



堀切跡



上月城からの眺め(千種川)



尼子勝久・山中鹿介・上月城戦没者などの供養碑。




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