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余暇を考えるヒマ
レジャーを視野に入れることができる人は、基本的に日々の生活にゆとりがある人ということの裏返しの表現だといえるでしょう。
したがって、こんな見方からすれば、つぎの記事ははたして日本国全体をとらえているのかといれば、そうではない、と答えざるをえないわけです。なぜなら、日々の生活に汲々としている人は、その日暮らしという言葉があるように、明日の行方もまたはっきりしない、そんな不安定な生活を強いられているわけです。だとすると、少なくとも生きたい、生き延びたいと考える人ならば、明日をまず無事に過ごせるか否かに腐心する。それ以外に少しでも考えが及ぶのであれば、それはその日暮らしといえないのかもしれません。
若者レジャー「貧困化」 遊びの種類減少、支出に格差も |
ようするに、毎日の生活がどうなるのか、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人にとって、生活の余剰部分、生きるための最低条件を上回る余剰を持ち得ないはずです。余暇を考えることのできる人は、以上の意味で、ゆとりのある人といってよいでしょう。
ですから、社会経済生産性本部の08年版「レジャー白書」の分析(サマリーはここ)は、もとより対象が限定されていることを念頭に置かざるをえません。最近、とくにこの種の調査にきわめて懐疑的です。池内了氏の著作を最近、取り上げましたが、それをまつまでもなく、この種の調査、統計には心してかからないといけないようです。これは、池内氏にかぎらず、少なくない識者が強調したところですが、まず調査の前提がどうなのか、はっきりつかむ必要があります。
この調査では、明らかに日々の暮らしに不安を抱えている人は除外されているといってよいでしょう。
日々の暮らしに不安を抱えている人が、たとえばそれは生活保護水準以下の収入で生活をしている人が相当のウエイトを現在、この日本国で占めていることが伝えられているわけなので、すると、この調査がわが日本国の全体をとらえていないということに誰もが気づくでしょう。
余暇を考え(たくても、考え)られない人の存在を今の日本国で無視するわけにはいかない事情がこうしてあるのです。その限りでは、この調査は無内容だといいきってよいのかもしれません。
そう態度をはっきりさせずに、この調査を好意的に受け止めるとすれば何がみえるのか。
それは、余裕のある人の中での動向です。傾向として余裕がなくなってきていることは読み取れそうです。
そのことは、つぎの社説がいうとおり、基本的には家計の硬直化に由来するでしょう。フレキシブルではない状況がある。余裕のある部分が、別の言葉でいえば余剰部分が次第にやせほそっていくということでしょうか。
社説:マイナス成長 元気な家計が何より大事だ |
実は、余暇というものは人間にとって、人間の全面的発達を考える場合、けっしておろそかにできないものです。
いま、テレビをはじめ、多くのメディアでオリンピック一色という感じさえ覚えるのですが、人間とスポーツを考えても、たちどころに余暇(時間)の意味の重要性に気づかされます。何よりもスポーツの今日的原型は国の産業革命以後にあって、そこでルールが確立されたといわれています。つまり、この時期以降、労働者は労働時間短縮をかちとり、勤労者層のなかでスポーツが急速に広がったとされるのです。
端的にいえば、時短のなかで余暇時間を労働者階級がかちとったといえるのではないでしょうか。そうして、勤労者一人ひとりがもっていた(スポーツの)潜在的能力を開花させてきたといえるように思えるのです。
まあ、以上の方向を人間の多面的な発達の方向だとすると、今日のオリンピックをみてみると、スポーツの産業化が徹底される方向に働いており、それが多面的な発達を阻害しているように思えてなりません。何よりもオリンピック報道そのものが巨大な利権に群がる資本と切り離せなくなっています。そして、競泳の水着騒動にみられるような資本のあくなき利権追求の姿が繰り返されているのです。
少し回り道をしましたが、あらためて強調したいのは、勤労者にとって余暇(時間)の意味は人間の発達にとって重要だということです。
ですから、少なくない部分が余暇を考えるヒマもない日本国の実態は、非人間的位置に勤労者が置かれていることの表現でもある。
昨日のエントリーで大澤真幸の言説をとりあげました。エントリーでは論考の要約を紹介するにとどめました。でその上に、大きく端折った部分がある。
それは、「非典型労働者たち」という章です。そこでは、昨日、とりあげなかったのですが、重要なことを大澤は指摘しています。
容易に理解できるように、余暇を考えるヒマもない層、その日暮らしを強いられている人びとに比較すると、こうしてキーボードをたたき、何がしかのブログ記事をアップできるのは、どこかに余裕があるといってもよいでしょう。それをどう実感するかは人それぞれでしょうが、明日の生活以外に考えが及ぶのは、そこに考えられない人との明確な差異があるでしょう。
ではこうした日本国の現状をどうあらためていくのかを一つの論点にとらえた場合、先にのべた少しでも余裕のある人と余裕のない人の間をどう考えるのかが、実践的には当然、問題になる。以前のエントリーで、赤木智弘氏の言説に象徴される一方の考え方にたいして疑問を呈しました(参照)。赤木氏が我々に突きつけたのは、比ゆ的にいえば、エントリーの表題の、一部が苦しむ不平等か、全部が苦しむ平等かという問いでした。換言すれば、その考えは、ちがいを強調するということでもあるでしょう。つまり、余裕のまったくない人とそうではない人の違いです。この点では私は、ちがいを強調するのではなく、一致点で共同するという立場をとります。
先ほどふれた大澤の重要な指摘とは以下の部分です。
非典型労働者とは、単純に、何かから疎外されているのではない。そうではなくて、そもそも「からの疎外」の前提となる「への疎外」の圏内に、彼らは入り込めていないのだ。こう考えると、非典型労働者の困難は彼らだけの困難ではない、ということがわかる。典型労働者(正社員)にとっても、事情は、基本的に変わらない。給与が高かったとしても、あるいは管理職であったとしても、その仕事が、普遍的な価値・使命Xとのつながりを書いているという点では、同じである。 |
それは、ここから敷衍されるものでしょう。
このように、普遍的な価値をかちとろうという点では同じ立場に立てるわけですから、あらためてちがいではなく、一致点を大事にする、その点で共同しうるということを強調したいと思うのです。
冒頭にもどれば、それはすなわち人間の多面的な発達を目指す方向と寸分もちがわないのですから。
(「世相を拾う」08155)
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