1.きっかけは87年の円高・海外移転・産業空洞化
なぜ私は今のような活動をしているのか、つまりリエゾン九州のような組織の立ち上げも含み、九州の技術系企業の取材を続けているのかといえば、きっかけは85年のプラザ合意後、急速に進み始めた円高である。
87年の暮れには1ドル=121円という当時の最高値を記録し、企業は円高に怯え、先を競うように海外移転に走り出した。
その結果、危惧されたのが国内の産業空洞化である。
当時の論調は、マスコミも含め生産拠点は海外に移し、国内には頭脳部分を残すという国際分業論が中心だった。
とにかく、海外移転しない奴はバカだという見方が広く占めており、有名な○○総研のセミナー辺りでも皆そういう論調で、やがて1ドル=100円を切る時代が来ると言っていた。確かにそうなったが、それは15年も後のことである。
もう一方では、若者の理系離れが言われ、理系の学生が金融など非理系に就職する傾向が顕著になった。
この2つの動きに、私はおかしいと感じた。
過去の歴史からも明らかなように、国内から製造拠点がなくなった国はその後例外なく疲弊していっているというのが1点。
もう1点は、大手は海外移転できても、海外移転できない中小はどうすればいいのか。日本は、とりわけ九州は中小企業が支えているのであり、その中小企業が成り立っていかない施策はおかしい。
では、どうすればいいのか。
つまり、どうすれば中小企業は生き残っていけるのか。
そのために私は何をなすべきか、を考えたのだ。
2.東北大・大見忠弘教授との出会い
私の活動を決定付けたのは東北大・大見忠弘教授との出会いだった。といってもご本人は私のことなど記憶にもないだろうが。
たまたま91年春、92年春と朝日新聞社の仕事で大見忠弘教授をインタビューする機会に恵まれた。
その時、大見教授の半導体産業に対する広い視野というか、詳細はここでは省くが、私利私欲を離れた半導体伝道師のような熱意に触れたのである。
それと同時に、違う角度からの発想がいかに必要かということも。
この時から私は取材活動の軸足を技術系企業の紹介に本格的に移していった。
その時点までの私の疑問と九州のテクノロジーの将来に対する懸念は「九州のテクノロジーに未来はあるか」と題して、当時、地元経済誌に書いた。
詳細はリエゾン九州のHP「九州の技術」に収録しているので、そちらを一読頂きたい。
見出しだけ紹介しておく。
・自力でなかった九州経済の浮揚
・なぜ高度化しない九州のテクノロジー
・地場と進出企業の技術交流が必要
・国内と海外から挟撃される九州
・夢を語れない技術にそっぽを向く若者
・地場のバックアップに大学人の奮起を望む
この時の指摘は今でも通用すると思っている。
3.中小企業の技術を紹介する
大見教授ではないが、伝道師が必要である。
私にその役ができるとは思わないが、中小企業活性化のために自分にもできることがあるはずだと考えた。
人は持てる武器で闘わなければならない。
では、私の武器とは何か。
それは書くことである。
しかも、85年当時の第2次ベンチャーブームの頃からベンチャーの取材は続けているから、ベンチャー・中小企業の技術を書くことはできる。
となると、あとは掲載媒体選びである。
専門誌ではなく一般経済誌をと考えた。
それは多くの中小企業が製品を売りたいのに、販路の問題を含め売る術を知らないか、困っていたからである。
つまり製造業の弱点はユーザーへのPR不足である。
魚を釣るには魚がいる所に釣り糸を垂らさねばならないのと同じだ。
専門誌で紹介しても同業者が見るだけで、販売にはつながりにくい。
このような理由から、当時、九州で発行されていた経済誌に話をして「九州テクテク物語」と題した連載を開始した。
「テクテク」とはハイテク・ローテクの略であると同時に、てくてくと歩くように地道に頑張っている企業という意味を込めた。
94年から4年間、その雑誌が廃刊になる直前まで連載を続けた。
こだわった商品を作っている企業や、優れた技術を持ちながら、あまり知られていない企業を九州一円から探して載せた。
取材費は出ないのに宮崎、鹿児島にでも取材に行ったから、収支決算を考えたら完全に赤字である。
それでもそれが自分に与えられた使命と思い取材し、原稿を書いた。
これではボランティアと同じと思うが、今でも同じことをしている。
威張って言えることではないが、だから今でも金には縁がない。
霞を食って生きているようなものだ。
なぜ私は今のような活動をしているのか、つまりリエゾン九州のような組織の立ち上げも含み、九州の技術系企業の取材を続けているのかといえば、きっかけは85年のプラザ合意後、急速に進み始めた円高である。
87年の暮れには1ドル=121円という当時の最高値を記録し、企業は円高に怯え、先を競うように海外移転に走り出した。
その結果、危惧されたのが国内の産業空洞化である。
当時の論調は、マスコミも含め生産拠点は海外に移し、国内には頭脳部分を残すという国際分業論が中心だった。
とにかく、海外移転しない奴はバカだという見方が広く占めており、有名な○○総研のセミナー辺りでも皆そういう論調で、やがて1ドル=100円を切る時代が来ると言っていた。確かにそうなったが、それは15年も後のことである。
もう一方では、若者の理系離れが言われ、理系の学生が金融など非理系に就職する傾向が顕著になった。
この2つの動きに、私はおかしいと感じた。
過去の歴史からも明らかなように、国内から製造拠点がなくなった国はその後例外なく疲弊していっているというのが1点。
もう1点は、大手は海外移転できても、海外移転できない中小はどうすればいいのか。日本は、とりわけ九州は中小企業が支えているのであり、その中小企業が成り立っていかない施策はおかしい。
では、どうすればいいのか。
つまり、どうすれば中小企業は生き残っていけるのか。
そのために私は何をなすべきか、を考えたのだ。
2.東北大・大見忠弘教授との出会い
私の活動を決定付けたのは東北大・大見忠弘教授との出会いだった。といってもご本人は私のことなど記憶にもないだろうが。
たまたま91年春、92年春と朝日新聞社の仕事で大見忠弘教授をインタビューする機会に恵まれた。
その時、大見教授の半導体産業に対する広い視野というか、詳細はここでは省くが、私利私欲を離れた半導体伝道師のような熱意に触れたのである。
それと同時に、違う角度からの発想がいかに必要かということも。
この時から私は取材活動の軸足を技術系企業の紹介に本格的に移していった。
その時点までの私の疑問と九州のテクノロジーの将来に対する懸念は「九州のテクノロジーに未来はあるか」と題して、当時、地元経済誌に書いた。
詳細はリエゾン九州のHP「九州の技術」に収録しているので、そちらを一読頂きたい。
見出しだけ紹介しておく。
・自力でなかった九州経済の浮揚
・なぜ高度化しない九州のテクノロジー
・地場と進出企業の技術交流が必要
・国内と海外から挟撃される九州
・夢を語れない技術にそっぽを向く若者
・地場のバックアップに大学人の奮起を望む
この時の指摘は今でも通用すると思っている。
3.中小企業の技術を紹介する
大見教授ではないが、伝道師が必要である。
私にその役ができるとは思わないが、中小企業活性化のために自分にもできることがあるはずだと考えた。
人は持てる武器で闘わなければならない。
では、私の武器とは何か。
それは書くことである。
しかも、85年当時の第2次ベンチャーブームの頃からベンチャーの取材は続けているから、ベンチャー・中小企業の技術を書くことはできる。
となると、あとは掲載媒体選びである。
専門誌ではなく一般経済誌をと考えた。
それは多くの中小企業が製品を売りたいのに、販路の問題を含め売る術を知らないか、困っていたからである。
つまり製造業の弱点はユーザーへのPR不足である。
魚を釣るには魚がいる所に釣り糸を垂らさねばならないのと同じだ。
専門誌で紹介しても同業者が見るだけで、販売にはつながりにくい。
このような理由から、当時、九州で発行されていた経済誌に話をして「九州テクテク物語」と題した連載を開始した。
「テクテク」とはハイテク・ローテクの略であると同時に、てくてくと歩くように地道に頑張っている企業という意味を込めた。
94年から4年間、その雑誌が廃刊になる直前まで連載を続けた。
こだわった商品を作っている企業や、優れた技術を持ちながら、あまり知られていない企業を九州一円から探して載せた。
取材費は出ないのに宮崎、鹿児島にでも取材に行ったから、収支決算を考えたら完全に赤字である。
それでもそれが自分に与えられた使命と思い取材し、原稿を書いた。
これではボランティアと同じと思うが、今でも同じことをしている。
威張って言えることではないが、だから今でも金には縁がない。
霞を食って生きているようなものだ。