クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

北武蔵のパワースポット”はどこにある?(15)―伊奈氏の墓碑―

2010年11月14日 | パワースポット部屋
伊奈氏の墓碑の前に立つと、
川のせせらぎの音がする。
鴻巣市に所在する勝願寺には、伊奈氏の墓碑がある。
埼玉県指定文化財だ。

徳川家康が関東に入府して以降、
幕府代官頭(関東郡代)として貢献した伊奈氏の実績はあまりにも大きい。

その一つに、“利根川の瀬替え(東遷)”がある。
いま利根川は千葉県銚子に注いでいるが、
元々このような流れだったわけではない。

江戸時代当時、利根川は江戸湾(東京湾)に注いでいた。
これを現在の流路に変えたわけだが、
ここに尽力したのが伊奈氏だった。

利根川の瀬替え第一期工事と言われるのが、
文禄3年(1594)の会の川締切。
その後、長い歳月を経て着々と瀬替え工事が進んだ。

元和7年(1621)には新川通の開削。
同年に、赤堀川が初めて開削された。
寛永12年から18年にかけて江戸川が通ると、
寛永18年(1641)に権現堂川が掘られた。
そして、承応3年(1654)に赤堀川が増削され、
銚子に注ぐ現在の流れになったのである。

この一連の流れに大きく尽力したのは、
伊奈忠次の2男“伊奈忠治”である。
荒川の西遷や見沼溜井の造成にも関わり、
初期の関東開発を支えた。
ただ、穏やかに流れているように見える川でも、
そこには深い歴史と、
そこに携わった人物の生の輝きがあると言えよう。

十代のとき、利根川を遊び場としていたぼくは、
この利根川の歴史は衝撃的だった。
当たり前のように流れている川でも、
実はいろいろなドラマがある。

水上交通が主だった往古は、
川は高速道路のようなもので、
多くの舟が行き来をしていたし、
川沿いには伝説もたくさん伝わっている。
その深みと広さに一気にはまってしまった。

利根川の瀬替えに深い関係を持つ伊奈氏も、
川の歴史に触れて知った。
実は、小学校の副読本に載っていたのだが、
興味のなかったぼくは、
その名は忘却の彼方に飛んでいたらしい。
関心の有無は雲泥の差ほど違う。

その後、勝願寺へ行って伊奈氏の墓碑を目にしたとき、
まるで憧れの芸能人と対面するようだったのを覚えている。
同寺の境内には、伊奈忠次と忠治の墓碑がある。
もの静かに建っているだけだだが、歴史の重みが違う。
その生の輝きや強さみたいなものを、
墓碑の前に立っていると得られそうな気がした。

関心がなければただの墓碑だ。
かつ「ただの人」である。
しかし、その歴史や生の軌跡を知っていると、
たちまちオーラを放つ。
そのオーラを感じたとき、
何か得るものがあるのではないだろうか。



伊奈氏墓碑(埼玉県鴻巣市)



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“ラーメン”と“城”の組み合わせは? ―ラーメン部(5)―

2010年11月13日 | グルメ部屋
同級生のcobaが「ラーメンを食べに行こう」と言った。
行きつけのうまいラーメン屋があるという。

基本的に、ぼくは同じ止まり木に立ち寄るタイプである。
当たり外れの高い店には自ら冒険はしない。
しかし、誘われれば別の話で、
cobaと一緒に行列のできるラーメン屋へ行った。

車通勤をしていた頃、
週に何度も立ち寄っていた店だという。
「こってりより、あっさり味が好きになった」と言うcoba。
「年ですかね」
「そうですかね」
そんな会話をしながらラーメン屋の暖簾をくぐる。

そこは羽生の隣町で、高速インターチェンジの近くにあった。
いままで何度となく通った道だが、
目に留まったことがなかった。
少し遠くにマンションが見え、
高速道路を渡る陸橋がある。

こぢんまりとした店内には、すでに客が並んでいた。
実はその日、ぼくはムジナモに関する仕事を終えた帰りで、
一人だけネクタイをしていた。
cobaは普段着。
なんとなく気恥ずかしい。

少し待って目の前に運ばれてきたラーメンは、
cobaが言うように、確かにあっさりしていた。
麺は太麺で、スープは鶏ガラ。
cobaはわりとラーメン屋を巡っているらしい。
おすすめのラーメンをいろいろ教えてくれた。

そういえば、20歳以降に会って、
アルコールが入らなかったのは初めてだったかもしれない。
cobaはあっという間にラーメンを平らげる。
行列に並ぶ時間より、食べる時間の方が短い。

予定では、ラーメンを食べるだけだった。
しかし、「城が見たい」とcobaが言ったから、
2人で近くの城を巡ることにする。
鷲宮城、花崎城、古河城の3城である。

その日は穏やかに晴れていて、城巡り日和だった。
城と言っても埋もれていて、
目に見えてわかるわけではない。
古河城はともかく、鷲宮城や花崎城は人の姿がない。

ラーメンを食べたあとということもあって、
体はぽかぽかしていた。
6城くらいは巡れそうな勢いである。

しかし、古河城を最後に帰路に就いた。
cobaは別のおすすめラーメン屋の名を口にする。
朝一番で並ばないと、午前中で売り切れてしまうらしい。
また今度という話になる。
もしそこへ行ったら、
城の一つや二つ、見繕わねばならないだろうか。
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編集者と行く羽生城めぐりは?(11) ―鐘打山―

2010年11月12日 | 羽生城跡・城下町巡り
“鐘打山”と呼ばれる場所はある。
「山」とはいえ、現在は平地になっていて、
「鐘」の姿もない。

『羽生市史』では『謙信と信玄』(井上鋭夫)を参考とし、
「越後春日山と羽生城との連絡に鐘を打ちならした所と思われる」と述べている。
すなわち、一理ずつに鐘を設け、
それを打ち鳴らして遠く上杉謙信のいる越後に伝えたのだ、と。

羽生城が謙信に緊急を知らせる事態に陥っていたのは確かである。
元亀3年には忍城主“成田氏長”が侵攻。
羽生勢を打ち散らしたと、氏長は北条氏照に報告している(「吉羽文書」)。

天正元年には“北条氏繁”が羽生城に的を絞る。
まだ地理に疎かった氏繁は、
鷲宮神社神主に「案内者」を寄こすよう伝えた(「結城寺文書」)。

そんな動向に対し、謙信は「黄金弐百両」を羽生に送る。
羽生城主“木戸忠朝”は、天正2年正月に城の維持を正覚院に祈願。
羽生城が危機的状況だったことが窺える。

そして謙信は、同年春に関東へ出陣した。
上州の城を落としたあと、羽生城救援に向かう。
ところが、謙信の前に立ちはだかったのは利根川だった。

雪解け水で川は増水し、渡ることができない。
結局謙信は救援が叶わず、越後に帰ってしまう。
そして羽生城は、同年冬に謙信の命令によって自落するのである。

天正2年7月26日付の木戸忠朝らが謙信に宛てた手紙の中に、
「越山為催促 態使僧具見聞候」とあるように、
羽生城は切に謙信からの救援を求めていた。
もし一里ごとに鐘を設けていたのなら、
鐘を打ち鳴らして助けを呼んだだろう。

しかし、北武蔵と越後とではあまりにも遠すぎる。
戦国時代に本当にそこに鐘打場があったのなら、
領民に緊急を知らせたり、
戦闘員としての動員を求めて打ち鳴らしたのではないだろうか。
領民のほとんどは、普段農作業をして暮らしていた。
しかし、鐘の音が鳴り響くと、
武器を手に持って動員したのだろう。

現在、「鐘打山」と呼ばれる場所は変電所になっている。
無闇に近付くこともできない。
その呼び名がなければ、
鐘の「か」の字も想像できないだろう。

「山」も「鐘」は現存していないが、
呼び名が往古の歴史を繙くヒントとなることがある。
いま鐘打山の前に立ち、
耳を澄ませば鐘の音が聞こえてくるかもしれない。
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新聞に報じられた“羽生城”は?

2010年11月11日 | お知らせ・イベント部屋
11月11日付の「埼玉新聞」に、
現在羽生の資料館で開催されている「冨田勝治展」が報じられている。
この展示は、羽生城研究に生涯を捧げた冨田氏の軌跡を追ったもの。
恐縮ながら、ぼくが取材を受けた。
ぜひ同企画展に足を運んでほしい。


web埼玉
「羽生城に生涯捧げる 郷土史家、故冨田さんの企画展」
http://www.saitama-np.co.jp/news11/11/05.html


<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

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“伊奈忠次”の夢が眠っている場所は? ―伊奈陣屋―

2010年11月11日 | 城・館の部屋
埼玉県内で“障子堀”が検出された城跡はいくつかある。
その一つに“伊奈陣屋”がある。
“伊奈忠次(いなただつぐ)”の陣屋である。

障子堀とは、堀の中に畝があるものを言う。
騎西城や花崎城、深谷城で検出され、
城を堅固にする用法だ。

伊奈忠次は徳川幕政を支えた人物で、
天正10年に徳川家康に仕えた。
武蔵国小室領1万石を領すと、
ここを拠点に新田開発や治水に尽力。
治水をやると必ずぶつかる人物である。

その伊奈忠次の陣屋跡は、現在民家が建っている。
しかし、堀や土塁が現存しており、
往時の面影を伺い知ることができる。
障子堀が検出されたという意味で、
比較的特異な城ということができるだろう。

障子堀は、埋め立てられて目にすることはできない。
こぢんまりと広がる空き地になっている。

ここには忠次の夢が眠っている。
この場所で、忠次は関東の行く末を思い描いていたのだろうか。
そしていまの日本を見たとき、
忠次は何を思うのだろう……。



検出された障子堀(埼玉県伊奈町)


障子堀跡


二の丸跡




水堀






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編集者と行く羽生城めぐりは?(10) ―広田・木戸氏系譜―

2010年11月10日 | 羽生城跡・城下町巡り
有名な戦国武将とゆかりのある土地は、
いまでも代名詞のように使われることが多い。
かつて戦国武将のいた羽生だが、
地元でも城主の名前を知っている人は多くはない。

ぼく自身が羽生城主の名を初めて知ったのは、
小学校高学年頃だった。
戦国末期において羽生城主だったのは、
“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
名字は違うが、実は同じ両親から生まれた兄弟と考えられている。

そもそも、「直繁」(なおしげ)と
「忠朝」(ただとも)という名前そのものが読みにくい。
しかも名字が違う。

利根川が好きだったぼくは羽生城は二の次だったし、
なかなかその名前を覚えられなかった。
しかし、いまとなっては直繁と忠朝の名前を手書きするのが好きだ。
パソコンではなく、じっくりと手で魂を吹き込むように書きたい。

ちなみに、ソフトバンクのCMで、やたら「ただとも」の言葉が登場する。
浜崎あゆみが唄う「ただともの歌」は、
ぼくには「忠朝の歌」に聞こえる。
ぜひ「忠朝(ただとも)の輪」を広げたい。

ところで、羽生城研究家の“冨田勝治”氏の最期の仕事は、
広田・木戸両氏の系譜を書くことだった。
両者が兄弟であることを解明したのは冨田氏の仕事である。

古くから木戸忠朝が羽生城主であったことは伝えられていたのだが、
広田直繁は城の重臣くらいにしか思われていなかった。
しかし、実は忠朝の兄だったことが判明。
上杉謙信は直繁に宛てて、「其方兄弟」(越佐史料)と書いている。

羽生城に直繁と忠朝の2人が在城していたわけではない。
直繁が羽生城、忠朝は皿尾城に入城していた。
そして、越相同盟の成立とともに、
直繁は謙信に尽くした褒美として、館林城を与えられる。
それを機に、忠朝は羽生城に移った。

すなわち、「羽生―皿尾体制」から「館林―羽生体制」の変更である。
しかし、直繁は館林で謀殺されたらしく、
足利へ移ったはずの“長尾顕長”が館林城主となっている。

兄を失った忠朝は半身をもぎとられたのも同然だった。
一人、羽生城を守っていかなければならなくなる。
菅原為繁や木戸重朝といった城将はいたが、
自落の一途を辿っていくのである。
そして、天正2年閏11月に自落し、
広田・木戸氏による羽生領支配は幕を下ろす。

生き残った城将や城兵は、謙信に引き取られることになった。
むろん、羽生に残る者もいて、
忍城主成田氏に仕えている。
しかし成田氏も天正18年に没落し、戦国の世は終わりを告げた。

新しく羽生城主となった“大久保忠隣(ただちか)”は一度も羽生に足を運ばず、
専ら城代が政務を執っていた。
そのまま時が過ぎ、慶長19年に忠隣の改易に伴い、
羽生城は廃城となるのである。

だから、羽生領民にとって「城主」という意識は弱い。
広田・木戸氏は時代とともに忘れ去られていく一方だった。
木戸忠朝の名はかろうじて残ったが、
広田直繁は歴史に埋もれていったことは前述した通りである。

城も時代と共に姿を変え、
天然の大沼も新田として開発されていった。
そして幕末になると城跡に代官所としての陣屋が構築され、
城の遺構は完全に消滅してしまう。
その陣屋も完成して間もなく、官軍によって灰燼に帰した。

こんな歴史の流れだから、人々の記憶から忘れ去られるのは当然だろう。
城跡には民家が建ち、広田・木戸氏がいた面影は完全に消えている。
まさに、つわものどもの夢の跡である。

そんな夢の跡から、冨田氏は丹念に調査を開始し、
埋もれた歴史を明らかにしてきた。
直繁や忠朝に光りを当て、この世に再び甦らせた。
その集大成として、晩年に広田・木戸氏の系譜を書き直したのである。

現在その系譜は、郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」で展示されている。
巻に墨字で書いたものであり、
最期の命を輝きを発している。

いや、「最期」と言うべきではないだろう。
その系譜には、名もなき人たちの命がきら星のごとく輝いている。
いずれも現代に甦った命である。
いまは小さな輝きかもしれない。
しかしそれは大きな光りとなって、
これから生き続けるだろう……



大天白神社の入口。
同社は木戸忠朝の奥さんが、安産祈願のために勧請したと伝えられる。



まんだら堀。
某八百屋さんの前を流れているまんだら堀の一部である。
かつては人が飛び越えられないくらい広かったという。
羽生城の外堀に比定される。



『羽生城と木戸氏』冨田勝治著
戎光祥出版社 


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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“ムジナもん”と遊びませんか?(60) ―メモ帳―

2010年11月09日 | ムジナもんの部屋
ムジナもんとその仲間たちのメモ帳が、
リニューアルして帰ってきた。
ムジナもんがいろいろな表情をしているのだけど、
怒っている顔は珍しい。

表紙は桃・青・緑の3色があって、1冊100円。
羽生市民プラザや市役所で販売している。
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(14)―岡部六弥太の墓―

2010年11月08日 | パワースポット部屋
岡部町の小さな公園に、
“五輪塔”が物々しく並んでいる。
ここは埼玉県指定史跡の“岡部六弥太の墓”である。

岡部氏は武蔵七党の猪俣党の一族であり、
六弥太は“岡部忠澄”(おかべただずみ)と名乗った。
墓および、近くに所在する普済寺一帯が岡部氏の館跡と考えられている。

終始源氏に仕え、一ノ谷の合戦では“平忠度”を討ち取った功績により、
伊勢国に地頭職を拝領した。
奥州藤原氏征伐にも参加しているし、
源頼朝にも認められる武蔵武士だった。

血気盛んな武蔵武士というわけではなく、
慎み深い性格だったらしい。
一ノ谷合戦で討ち取った平忠度のために、
五輪塔と桜をたててその菩提を弔ったと伝えられる。
祟りを恐れたためとも考えられるが、
民に慕われる領主だったようだ。

というのも、岡部六弥太の墓を削って飲むと、
子のない人には子ができ、
乳のでない人には乳が出ると信じられていたという。
そのため、六弥太の五輪塔は歪に変形している。

その武が崇拝されたのか、
それとも徳のある領主だったのか、
亡きあとも六弥太を慕う民は後を絶たなかった。
『新編武蔵風土記稿』には普済寺と六弥太の墓の絵図が収録され、
「五輪塔十三四基並立り、何れも欠損して全からず」と記している。

ちなみに、発掘調査によって五輪塔の下から蔵骨器が出土した。
蔵骨器とは、いわゆる骨壺である。
この蔵骨器は地元産および、
常滑産のものが交ざっていた。
流通や交通を見る上で示唆を投げかけている。

現在の岡部六弥太の墓は囲いに守られ、
墓碑を削ることはできない。
しかし、削られた墓碑は生々しい感じで見ることはできる。
往古よりここがパワースポットだったことが読み取れるだろう。

※最初の画像は県指定「岡部六弥太の墓」
手前が父行忠、次が六弥太で、3基目が六弥太の妻の五輪塔だという。
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はにゅうの三田ヶ谷で会いましょう ―ムジナモと菊花―

2010年11月07日 | お知らせ・イベント部屋
今日、さいたま水族館が主催した「野外観察会」がある。
スタートは、水族館の隣に位置するムジナモ自生地。
参加される方、現地でお会いしましょう。

なお、自生地から徒歩数秒のところにある“三田ヶ谷農村センター”では、
11月15日(月)まで“菊花展”が開催されている。

毎年大天白神社が会場だったのだが、
今年は三田ヶ谷農村センターに変わった。
さいたま水族館やキヤッセ羽生から徒歩1分である。
あざやかに色付いた菊の花が秋の深まりを告げている。


埼玉県羽生市三田ヶ谷

※最初の画像はムジナもんのシッポ(ムジナモ)と、実物のムジナモ
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夢で“松”を植えたら何を意味する? ―はにゅうの勘兵衛松―

2010年11月06日 | 歴史さんぽ部屋
かつて旧利根川(会の川)沿いには河畔砂丘が連なり、
その上には数多くの松が生えていた。
高度経済成長期に砂に高値がつき、
砂丘は削り取られ、松もその姿を消す。

現在は、加須市志多見にその松の名残を見ることができる。
ただ、松はあれど名前のついた松はないだろう。
羽生市内では、「須影の黒松」(枯死)や
上杉謙信にゆかりのある「旗かけの松」と呼ばれる松があるが、
人の名前はついていない。

ところが、“勘兵衛松”と人の名前のついた松がある。
それは、羽生市上新郷の“日光脇往還”沿いに立っている。

寛永5年(1628)、時の忍城主が勘兵衛に命じ、
150本の松を植えさせたという。
以来、この松は「勘兵衛松」と呼ばれ、
往来を行く者たちを見続けてきた。

現在も通りに松が並んでいるのだが、
寛永5年当時から残っている松は、
実は1本だけとなっている。
いわば最後の砦である。

松並木を見ていくと、ひときわ太く、
威厳の漂う松に出会うことができるだろう。
それが初代勘兵衛松だ。

実は、この勘兵衛松の次世代を育てようというプロジェクトが、
数年前に発動した。
この松からとれた種を採取し、
地元の高校の協力を得てこれを栽培。
そしていま、植栽できるほどの大きさに成長したという。

新聞記事によると、
この勘兵衛松2世は、地元小学生や住民らと一緒に植樹するとのこと。
未来に向けて、若い松が羽生の土に根を下ろす。

ところで、松の“俗信”は多い。
羽生から近い妻沼では、聖天様が松の葉で目を傷つけたため、
信者の家では松を植えないとされている。

また、京都では松を南に植えると栄え、
西に植えると屋根の高さまでは栄えるが、
家を超すと衰えると言われているという。

墓に松を植えるとよくないとも言うし(群馬県)、
家の中に二俣の松があると、双子が生まれる(香川県)なんていう俗信もある。

では、松を植えるという行為について何か俗信はないのだろうか?
現実世界ではないのだが、
植樹する夢は吉とされている。
そもそも、松の夢は吉夢である。

松は「神聖」や「不死」のシンボルとされる。
夢に見ると、男は栄達、女は良縁をもたらしてくれるらしい。
「松の実」もよく、幸運の訪れや健康回復の暗示がある。

したがって、松が夢に出ると長生きをしたり、
家が栄えるという俗信がある。
松を植える夢も、長生きをするという吉夢だ。
木に登るのも、良いことが起こるとされている。

これらに根拠はない。
あくまでも俗信である。
しかし、松の夢を見たら、なんだか良いことがありそうな予感はする。
ただし、夢に出る松が枯れていたりした場合は要注意。
「神聖」「不死」のシンボルに翳りが見える。

勘兵衛松は歴史ある松である。
もしこの松が夢に出てきたら、
幸せをもたらしてくれると信じたい。

そして、現実世界では2代目勘兵衛松が植樹される。
順調にすくすく伸び、
400年後には見上げるほど大きくなっているだろう。
夢に見た者だけでなく、
多くの人に幸せを運ぶ松として育ってほしい。



勘兵衛松並木(埼玉県羽生市上新郷)



新郷の宿場
八王子千人同心が往来する日光脇往還でもある。


参照文献
『日本俗信辞典』鈴木棠三、角川書店
『細密 夢占い辞典』秋月さやか、学習研究社


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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(13) ―正倉院―

2010年11月05日 | パワースポット部屋
北武蔵から行くパワースポットである。

現在、奈良国立博物館で「正倉院展」が開催されている。
さすが奈良。
さすがは正倉院。
博物館の前を通ると長い行列ができていた。

博物館に続く道で、
ぼくの前を太った男子が歩いていたのだが、
その足取りは妙に軽い。
そして、迷うことなく博物館に消えていった。

並ぶ人たちは地元とは限らない。
日本各地から足を運んできた人たちなのだろう。
日本のみならず、外国人の来館者も多い。
奈良や正倉院は日本のブランドである。
教科書にも載っているから、
避けて通ることはできない。

多くの観光客と、
奈良公園で草とせんべいを食むシカ、シカ、シカ……
観光都市の力がひしひしと伝わってくる。

人混みは苦手という人も多いが、
観光都市の賑わいはひと味違う。
文化と歴史の香りが漂い、
疲れた顔をしている人はほとんどいない。

正倉院とは何か?
『日本史大事典』(平凡社)は、概要として次のように述べている。

 正倉には八世紀、奈良時代の文化を具体的に伝える遺品が収蔵されている。
 大陸から舶載されたものも多く、それらは唐代の文化の粋を示すとともに、
 唐代の文化が受け入れた西方諸地域の文化の姿をも伝えており、
 古代の東西文化の交流について多くの資料を提供している。

つまり、お宝が眠る倉である。
文化は時代を越えて生き続ける。
その魅力は失われることはないのだろう。
現代を生きる我々も、その宝物(ほうもつ)に心惹かれて足を運んでいる。

輝きを失わない宝物にパワーがないわけがない。
『ドラゴンボール』の孫悟空が使う元気玉のように、
時代を越えて魅了された人たちの元気を少しずつ吸収し、
いまも輝き続けているのかもしれない。

そこに引き寄せられるようにシカたちも集まっている。
彼らの目的は正倉院の宝物というわけではなく、
観光客が与えるシカせんべいだろう。
正倉院<シカせんべい
という図式が、彼らの瞳には映っていた。



奈良国立博物館



正倉院を囲む白壁



シカ
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編集者と行く羽生城めぐりは?(9) ―三宝荒神―

2010年11月04日 | 羽生城跡・城下町巡り
現在郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」で、
“三宝荒神御正体”が展示されている。

これは、羽生城主“広田直繁”と、
“木戸忠朝”が初めて歴史上に姿を現す史料である。
「天文五年丙申 五月吉日」と銘が刻まれている。

展示されているのはレプリカで、
本物は小田原にある。
なぜかというと、“北条氏政”が戦利品のために奪ったから、と考えられている。
氏政は、天正元年(1575)8月頃に羽生の小松に布陣した。

 忍・羽生之間号小松与所ニ被陣取之由(「常陸遺文」)

このとき、天文5年(1536)に直繁と忠朝が小松に奉納した三宝荒神を、
氏政が奪ったのだろうか。
羽生城攻防戦があったのか記録されていないが、
小松で乱取りがあったのかもしれない。
持ち去られた三宝荒神は、
小田原の安楽寺に安置されることになった。

ちなみに、小松は羽生領72ヶ村総鎮守の“小松神社”が鎮座している。
そして、隣接する小松寺には修験者がいた。
小松神社とは現在の呼び名で、往時は熊野白山合社と言った。
山岳信仰の色濃い場所である。

修験者と羽生城主の関係は定かではないが、
何かしらの繋がりはあったのかもしれない。
スパイ活動や呪術的な儀式、
記録されていないものがあったとしてもおかしくはない。

三宝荒神は火伏せの神として祀られることが多い。
城を火から守る、つまり落城せずに堅固に維持することを、
直繁と忠朝両人は祈願したのではないかとぼくは思っている。

三宝荒神御正体が展示されるのは、
平成3年度の「羽生城展」以来である。
ぼくは一度目にしているはずなのだが、記憶に全くない。
羽生城主初出の史料などと思いもしなかった頃のことだ。

天正元年に北条氏政によって持ち去られたのだとすれば、
三宝荒神は約400年以上が過ぎたいまも、
羽生の土を踏んでいないということになる。
長い歴史の重みを感じさせる。

レプリカにせよ、普段はお目にかかれない史料である。
今回の展示にしろ、約20年ぶりということになる。
この機会にぜひ目にしておきたい。



三宝荒神御正体
最初の画像は埼玉県羽生市小松
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本、でました ―『羽生城と木戸氏』―

2010年11月03日 | クニ部屋の本棚
編集者の伊藤さんの話によると、
今日11月3日から『羽生城と木戸氏』(冨田勝治著)が全国の書店に並ぶという。

拙ブログですでに何度か紹介しているが、
この本は平成4年に刊行された『羽生城―上杉謙信の属城―』のリニューアル本である。
名前を改め『羽生城と木戸氏』とした。

版元は“戎光祥出版”(えびすこうしょうしゅっぱん)。
同社は「中世武士選書」というシリーズ本を刊行していて、
『羽生城と木戸氏』はその3冊目ということになる。

これは、入手が困難になった優れた歴史書を刊行しようという企画で、
すでに『武田信重』(磯貝正義)や
『安芸武田氏』(河村昭一)が出ている。

なぜ『羽生城』に白羽の矢が立ったかというと、
“黒田基樹”という学者から推薦されたためだ。
黒田氏は駿河台学の准教授で、
関東戦国史をやる者は避けて通れない人物である。
拙ブログに載せた記事も、
黒田氏の著書を多く参考にしている。

生前、冨田氏の書斎へ行くと、
黒田氏の著書がズラリ並んでいたのを覚えている。
「いい本だよ。この人の論文は好きなんだなぁ」と、言っていた。

冨田氏が亡くなって2年が経ったいま、
黒田氏から『羽生城』が伊藤さんに推薦され、
再刊行されるという運びになったわけだ。
著作権を持つ冨田家に話を持っていくと快く承諾。
8月頃から編集作業がはじまった。

ぼくが伊藤さんと会ったのも8月頃で、
編集協力という形でいろいろと携わることになった。
師の本である。
ぼく自身、この再刊行の話は感慨深いものがあった。

休日を返上して打ち合わせをしたり、
伊藤さんと写真撮影を撮影をしたり、
または小見出しの作成や校正の朱入れ、
著書紹介の文章を書いたりした。
決して楽ではなかったが、
師の本という思い入れが体を動かしていたと思う。

「あとがきを書いてくれませんか?」と伊藤さんに言われ、
冨田氏やまつわるエピソードと、ぼく自身の想いみたいなものを書いた。
それは「冨田氏の遺志を読む」として、
『羽生城と木戸氏』に載っている。
手違いでぼくの名前が前と後ろにあるのだが、
これはご愛敬としてもらおう。

『羽生城と木戸氏』は、冨田氏が二十歳前後から始めた羽生城研究の結晶である。
伝説や伝承の域を出なかった羽生城を、
初めて学術的に解明した。
今日羽生城史を知ることができるのは、
冨田氏の研究のおかげと言っても過言ではない。

そんな熱い魂みたいなものが、『羽生城と木戸氏』には詰まっている。
この本を通して、羽生城に入城する者がどんどん増えていくことを願ってやまない。
ちなみに、章立ては以下の通りである。

第一章 羽生城とその周辺
   1 羽生城跡を探る
   2 羽生城の支城
第二章 羽生城主木戸氏・広田氏
   1 木戸氏の出自
   2 鎌倉・古河公方と木戸氏
   3 広田氏と木戸氏
第三章 戦国時代の羽生城
   1 初期の羽生城
   2 羽生城と皿尾城の攻防
   3 危うし羽生城
   4 羽生・関宿両城の陥落
   5 落城後の将兵と城領のゆくえ



『羽生城 ―上杉謙信の属城―』
冨田勝治著、平成4年刊、私家版
これはいわゆる旧版である。




『羽生城と木戸氏』(冨田勝治著・戎光祥出版社)
上の画像は同書の裏表紙。
限定1000部の刊行。
2200円+税
http://www.ebisukosyo.co.jp/
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雨の日に食べる“ラーメン”はどんな味? ―ラーメン部(4)―

2010年11月02日 | グルメ部屋
雨の降る日に食べるラーメンは、なんだか情緒がある。
朝から雨が降っていたのに、
店の前には数人の人が並んでいた。

その店は知る人ぞ知る人気店。
昼間のみの営業だ。
土曜日なのに1時半からの講演に出席しなければならず、
ぼくらはその店に足を運んだ。

ねぎみそラーメンがうまいという。
ラーメン部の多くがその一杯を注文した。
窓の外は降り注ぐ雨。
暖簾も寒そうに風に揺れていた。

寒い日は、ラーメンの温もりが優しい。
雨の降る日のラーメンはどこか詩的である。

濛々と湯気を立てるラーメンを啜る。
店には次から次へと客が来店した。
冷たい雨の匂いが店内に入る。
ラーメンはますます詩的な面もちで湯気を上げていた。
コメント (2)
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北武蔵の“パワースポット”はどこにある?(12) ―奈良の行基像―

2010年11月01日 | パワースポット部屋
「北武蔵」ではないのだが、
近鉄奈良駅の前には“行基”の像が建っている。
大宮駅の「まめの木」や、
渋谷駅の「ハチ公」のように、
行基像は待ち合わせスポットかもしれない。

それにしても霊験あらたかそうな駅前である。
行基は教科書にも載っている奈良時代の高僧で、
伝道と社会事業を展開したことはよく知られている。

政府から目を付けられ、その伝道活動は禁圧された。
しかし、その後政府に認められることになり、
東大寺の大仏造営の従事や、
大僧正に任ぜられたのである。

そんな高僧の像の建つ近鉄奈良駅の前は、
パワースポットかもしれない。
何となく、霊験あらたかそうな雰囲気が漂っている。

ところが、うっかり待ち合わせ時間を勘違いして、
のんびりランチをしたことがある。
相手から電話がかかってきて時間のミスに気付き、
慌てて店を出る。

その店では注文したものがなかなか出てこなかったから、
急遽キャンセルになってしまった。
悪いことをした。
店の前を歩くのも気が引ける。

店を出て大急ぎで走る。
十代顔負けの速さだったと思う。
その意味で、行基像からは確かにパワーを貰ったかもしれない……





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