クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(9) ―三宝荒神―

2010年11月04日 | 羽生城跡・城下町巡り
現在郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」で、
“三宝荒神御正体”が展示されている。

これは、羽生城主“広田直繁”と、
“木戸忠朝”が初めて歴史上に姿を現す史料である。
「天文五年丙申 五月吉日」と銘が刻まれている。

展示されているのはレプリカで、
本物は小田原にある。
なぜかというと、“北条氏政”が戦利品のために奪ったから、と考えられている。
氏政は、天正元年(1575)8月頃に羽生の小松に布陣した。

 忍・羽生之間号小松与所ニ被陣取之由(「常陸遺文」)

このとき、天文5年(1536)に直繁と忠朝が小松に奉納した三宝荒神を、
氏政が奪ったのだろうか。
羽生城攻防戦があったのか記録されていないが、
小松で乱取りがあったのかもしれない。
持ち去られた三宝荒神は、
小田原の安楽寺に安置されることになった。

ちなみに、小松は羽生領72ヶ村総鎮守の“小松神社”が鎮座している。
そして、隣接する小松寺には修験者がいた。
小松神社とは現在の呼び名で、往時は熊野白山合社と言った。
山岳信仰の色濃い場所である。

修験者と羽生城主の関係は定かではないが、
何かしらの繋がりはあったのかもしれない。
スパイ活動や呪術的な儀式、
記録されていないものがあったとしてもおかしくはない。

三宝荒神は火伏せの神として祀られることが多い。
城を火から守る、つまり落城せずに堅固に維持することを、
直繁と忠朝両人は祈願したのではないかとぼくは思っている。

三宝荒神御正体が展示されるのは、
平成3年度の「羽生城展」以来である。
ぼくは一度目にしているはずなのだが、記憶に全くない。
羽生城主初出の史料などと思いもしなかった頃のことだ。

天正元年に北条氏政によって持ち去られたのだとすれば、
三宝荒神は約400年以上が過ぎたいまも、
羽生の土を踏んでいないということになる。
長い歴史の重みを感じさせる。

レプリカにせよ、普段はお目にかかれない史料である。
今回の展示にしろ、約20年ぶりということになる。
この機会にぜひ目にしておきたい。



三宝荒神御正体
最初の画像は埼玉県羽生市小松

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