“足利学校”は国指定の文化財だ。
日本最古の学校と言われる。
足利義兼が創立し、上杉憲実が快元を招いて学校を整備したと考えられている。
「学校」と言っても、「日本最古」と言われる学舎である。
現代の感覚でそのまま当てはめることはできない。
というのも、生徒は禅僧に限られていた。
つまり、お坊さんでなければ入学できなかったのだ。
そして、彼らが学んでいたのは儒学だった。
中でも重視されていたのは“易学”である。
当時、戦国武将は“占い”によって合戦日や方角を定めていた。
かなりの験をかついでおり、
例えば犬が軍の右から左へ横切れば吉とし、
その逆は凶とされた。
「軍師」の言葉があるが、
それは「占い師」と言っても過言ではない。
足利学校で学んだ生徒は、
戦国武将のもとへ招かれていった。
合戦は「武」だが、また「知」でもある。
単に槍刀を振りかざせばいいというものではない。
人智を越えたところのパワー、あるいは験によって行われていた。
戦国武将に優遇されたことを考えると、
足利学校は軍師養成所の一面もあったと言えよう。
むろん、純粋に学問に励む者もいたし、
曲直瀬道三や田代三喜斎などの医者になる者もいた。
徳川家康のブレーン天海のように、
政治的権力を持つ者もいる。
足利学校は武田信玄にも認められるところであり、
いま風に言えば、抜群の就職率を誇り、
信頼と実績のある名門校だった。
ちなみに、在学中は禅僧でも、卒業して還俗するのは自由だった。
入学したければ、一旦お坊さんになればよい。
中には問題児もいたろうし、
権力争いやどろどろとした人間関係もあったのだろうが、
名門校としてその名を轟かせていた。
足利学校が閉校したのは明治5年。
同36年にその跡地に遺跡図書館が開設された。
この町で教師になった者は、
足利学校歴代校長(庠主)の墓にお詣りするという。
往古の教育内容と現代とではまるで違うが、
教育を重んじ、尊ぶその精神はいまも生き続けている。
足利学校(栃木県足利市)
日本最古の学校と言われる。
足利義兼が創立し、上杉憲実が快元を招いて学校を整備したと考えられている。
「学校」と言っても、「日本最古」と言われる学舎である。
現代の感覚でそのまま当てはめることはできない。
というのも、生徒は禅僧に限られていた。
つまり、お坊さんでなければ入学できなかったのだ。
そして、彼らが学んでいたのは儒学だった。
中でも重視されていたのは“易学”である。
当時、戦国武将は“占い”によって合戦日や方角を定めていた。
かなりの験をかついでおり、
例えば犬が軍の右から左へ横切れば吉とし、
その逆は凶とされた。
「軍師」の言葉があるが、
それは「占い師」と言っても過言ではない。
足利学校で学んだ生徒は、
戦国武将のもとへ招かれていった。
合戦は「武」だが、また「知」でもある。
単に槍刀を振りかざせばいいというものではない。
人智を越えたところのパワー、あるいは験によって行われていた。
戦国武将に優遇されたことを考えると、
足利学校は軍師養成所の一面もあったと言えよう。
むろん、純粋に学問に励む者もいたし、
曲直瀬道三や田代三喜斎などの医者になる者もいた。
徳川家康のブレーン天海のように、
政治的権力を持つ者もいる。
足利学校は武田信玄にも認められるところであり、
いま風に言えば、抜群の就職率を誇り、
信頼と実績のある名門校だった。
ちなみに、在学中は禅僧でも、卒業して還俗するのは自由だった。
入学したければ、一旦お坊さんになればよい。
中には問題児もいたろうし、
権力争いやどろどろとした人間関係もあったのだろうが、
名門校としてその名を轟かせていた。
足利学校が閉校したのは明治5年。
同36年にその跡地に遺跡図書館が開設された。
この町で教師になった者は、
足利学校歴代校長(庠主)の墓にお詣りするという。
往古の教育内容と現代とではまるで違うが、
教育を重んじ、尊ぶその精神はいまも生き続けている。
足利学校(栃木県足利市)