クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

戦国時代に“学校”で何を学んでいた? ―足利学校―

2010年11月29日 | 戦国時代の部屋
“足利学校”は国指定の文化財だ。
日本最古の学校と言われる。

足利義兼が創立し、上杉憲実が快元を招いて学校を整備したと考えられている。
「学校」と言っても、「日本最古」と言われる学舎である。
現代の感覚でそのまま当てはめることはできない。

というのも、生徒は禅僧に限られていた。
つまり、お坊さんでなければ入学できなかったのだ。
そして、彼らが学んでいたのは儒学だった。

中でも重視されていたのは“易学”である。
当時、戦国武将は“占い”によって合戦日や方角を定めていた。
かなりの験をかついでおり、
例えば犬が軍の右から左へ横切れば吉とし、
その逆は凶とされた。

「軍師」の言葉があるが、
それは「占い師」と言っても過言ではない。
足利学校で学んだ生徒は、
戦国武将のもとへ招かれていった。

合戦は「武」だが、また「知」でもある。
単に槍刀を振りかざせばいいというものではない。
人智を越えたところのパワー、あるいは験によって行われていた。
戦国武将に優遇されたことを考えると、
足利学校は軍師養成所の一面もあったと言えよう。

むろん、純粋に学問に励む者もいたし、
曲直瀬道三や田代三喜斎などの医者になる者もいた。
徳川家康のブレーン天海のように、
政治的権力を持つ者もいる。
足利学校は武田信玄にも認められるところであり、
いま風に言えば、抜群の就職率を誇り、
信頼と実績のある名門校だった。

ちなみに、在学中は禅僧でも、卒業して還俗するのは自由だった。
入学したければ、一旦お坊さんになればよい。
中には問題児もいたろうし、
権力争いやどろどろとした人間関係もあったのだろうが、
名門校としてその名を轟かせていた。

足利学校が閉校したのは明治5年。
同36年にその跡地に遺跡図書館が開設された。
この町で教師になった者は、
足利学校歴代校長(庠主)の墓にお詣りするという。
往古の教育内容と現代とではまるで違うが、
教育を重んじ、尊ぶその精神はいまも生き続けている。



足利学校(栃木県足利市)









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