有名な戦国武将とゆかりのある土地は、
いまでも代名詞のように使われることが多い。
かつて戦国武将のいた羽生だが、
地元でも城主の名前を知っている人は多くはない。
ぼく自身が羽生城主の名を初めて知ったのは、
小学校高学年頃だった。
戦国末期において羽生城主だったのは、
“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
名字は違うが、実は同じ両親から生まれた兄弟と考えられている。
そもそも、「直繁」(なおしげ)と
「忠朝」(ただとも)という名前そのものが読みにくい。
しかも名字が違う。
利根川が好きだったぼくは羽生城は二の次だったし、
なかなかその名前を覚えられなかった。
しかし、いまとなっては直繁と忠朝の名前を手書きするのが好きだ。
パソコンではなく、じっくりと手で魂を吹き込むように書きたい。
ちなみに、ソフトバンクのCMで、やたら「ただとも」の言葉が登場する。
浜崎あゆみが唄う「ただともの歌」は、
ぼくには「忠朝の歌」に聞こえる。
ぜひ「忠朝(ただとも)の輪」を広げたい。
ところで、羽生城研究家の“冨田勝治”氏の最期の仕事は、
広田・木戸両氏の系譜を書くことだった。
両者が兄弟であることを解明したのは冨田氏の仕事である。
古くから木戸忠朝が羽生城主であったことは伝えられていたのだが、
広田直繁は城の重臣くらいにしか思われていなかった。
しかし、実は忠朝の兄だったことが判明。
上杉謙信は直繁に宛てて、「其方兄弟」(越佐史料)と書いている。
羽生城に直繁と忠朝の2人が在城していたわけではない。
直繁が羽生城、忠朝は皿尾城に入城していた。
そして、越相同盟の成立とともに、
直繁は謙信に尽くした褒美として、館林城を与えられる。
それを機に、忠朝は羽生城に移った。
すなわち、「羽生―皿尾体制」から「館林―羽生体制」の変更である。
しかし、直繁は館林で謀殺されたらしく、
足利へ移ったはずの“長尾顕長”が館林城主となっている。
兄を失った忠朝は半身をもぎとられたのも同然だった。
一人、羽生城を守っていかなければならなくなる。
菅原為繁や木戸重朝といった城将はいたが、
自落の一途を辿っていくのである。
そして、天正2年閏11月に自落し、
広田・木戸氏による羽生領支配は幕を下ろす。
生き残った城将や城兵は、謙信に引き取られることになった。
むろん、羽生に残る者もいて、
忍城主成田氏に仕えている。
しかし成田氏も天正18年に没落し、戦国の世は終わりを告げた。
新しく羽生城主となった“大久保忠隣(ただちか)”は一度も羽生に足を運ばず、
専ら城代が政務を執っていた。
そのまま時が過ぎ、慶長19年に忠隣の改易に伴い、
羽生城は廃城となるのである。
だから、羽生領民にとって「城主」という意識は弱い。
広田・木戸氏は時代とともに忘れ去られていく一方だった。
木戸忠朝の名はかろうじて残ったが、
広田直繁は歴史に埋もれていったことは前述した通りである。
城も時代と共に姿を変え、
天然の大沼も新田として開発されていった。
そして幕末になると城跡に代官所としての陣屋が構築され、
城の遺構は完全に消滅してしまう。
その陣屋も完成して間もなく、官軍によって灰燼に帰した。
こんな歴史の流れだから、人々の記憶から忘れ去られるのは当然だろう。
城跡には民家が建ち、広田・木戸氏がいた面影は完全に消えている。
まさに、つわものどもの夢の跡である。
そんな夢の跡から、冨田氏は丹念に調査を開始し、
埋もれた歴史を明らかにしてきた。
直繁や忠朝に光りを当て、この世に再び甦らせた。
その集大成として、晩年に広田・木戸氏の系譜を書き直したのである。
現在その系譜は、郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」で展示されている。
巻に墨字で書いたものであり、
最期の命を輝きを発している。
いや、「最期」と言うべきではないだろう。
その系譜には、名もなき人たちの命がきら星のごとく輝いている。
いずれも現代に甦った命である。
いまは小さな輝きかもしれない。
しかしそれは大きな光りとなって、
これから生き続けるだろう……
大天白神社の入口。
同社は木戸忠朝の奥さんが、安産祈願のために勧請したと伝えられる。
まんだら堀。
某八百屋さんの前を流れているまんだら堀の一部である。
かつては人が飛び越えられないくらい広かったという。
羽生城の外堀に比定される。
『羽生城と木戸氏』冨田勝治著
戎光祥出版社
羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
いまでも代名詞のように使われることが多い。
かつて戦国武将のいた羽生だが、
地元でも城主の名前を知っている人は多くはない。
ぼく自身が羽生城主の名を初めて知ったのは、
小学校高学年頃だった。
戦国末期において羽生城主だったのは、
“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
名字は違うが、実は同じ両親から生まれた兄弟と考えられている。
そもそも、「直繁」(なおしげ)と
「忠朝」(ただとも)という名前そのものが読みにくい。
しかも名字が違う。
利根川が好きだったぼくは羽生城は二の次だったし、
なかなかその名前を覚えられなかった。
しかし、いまとなっては直繁と忠朝の名前を手書きするのが好きだ。
パソコンではなく、じっくりと手で魂を吹き込むように書きたい。
ちなみに、ソフトバンクのCMで、やたら「ただとも」の言葉が登場する。
浜崎あゆみが唄う「ただともの歌」は、
ぼくには「忠朝の歌」に聞こえる。
ぜひ「忠朝(ただとも)の輪」を広げたい。
ところで、羽生城研究家の“冨田勝治”氏の最期の仕事は、
広田・木戸両氏の系譜を書くことだった。
両者が兄弟であることを解明したのは冨田氏の仕事である。
古くから木戸忠朝が羽生城主であったことは伝えられていたのだが、
広田直繁は城の重臣くらいにしか思われていなかった。
しかし、実は忠朝の兄だったことが判明。
上杉謙信は直繁に宛てて、「其方兄弟」(越佐史料)と書いている。
羽生城に直繁と忠朝の2人が在城していたわけではない。
直繁が羽生城、忠朝は皿尾城に入城していた。
そして、越相同盟の成立とともに、
直繁は謙信に尽くした褒美として、館林城を与えられる。
それを機に、忠朝は羽生城に移った。
すなわち、「羽生―皿尾体制」から「館林―羽生体制」の変更である。
しかし、直繁は館林で謀殺されたらしく、
足利へ移ったはずの“長尾顕長”が館林城主となっている。
兄を失った忠朝は半身をもぎとられたのも同然だった。
一人、羽生城を守っていかなければならなくなる。
菅原為繁や木戸重朝といった城将はいたが、
自落の一途を辿っていくのである。
そして、天正2年閏11月に自落し、
広田・木戸氏による羽生領支配は幕を下ろす。
生き残った城将や城兵は、謙信に引き取られることになった。
むろん、羽生に残る者もいて、
忍城主成田氏に仕えている。
しかし成田氏も天正18年に没落し、戦国の世は終わりを告げた。
新しく羽生城主となった“大久保忠隣(ただちか)”は一度も羽生に足を運ばず、
専ら城代が政務を執っていた。
そのまま時が過ぎ、慶長19年に忠隣の改易に伴い、
羽生城は廃城となるのである。
だから、羽生領民にとって「城主」という意識は弱い。
広田・木戸氏は時代とともに忘れ去られていく一方だった。
木戸忠朝の名はかろうじて残ったが、
広田直繁は歴史に埋もれていったことは前述した通りである。
城も時代と共に姿を変え、
天然の大沼も新田として開発されていった。
そして幕末になると城跡に代官所としての陣屋が構築され、
城の遺構は完全に消滅してしまう。
その陣屋も完成して間もなく、官軍によって灰燼に帰した。
こんな歴史の流れだから、人々の記憶から忘れ去られるのは当然だろう。
城跡には民家が建ち、広田・木戸氏がいた面影は完全に消えている。
まさに、つわものどもの夢の跡である。
そんな夢の跡から、冨田氏は丹念に調査を開始し、
埋もれた歴史を明らかにしてきた。
直繁や忠朝に光りを当て、この世に再び甦らせた。
その集大成として、晩年に広田・木戸氏の系譜を書き直したのである。
現在その系譜は、郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」で展示されている。
巻に墨字で書いたものであり、
最期の命を輝きを発している。
いや、「最期」と言うべきではないだろう。
その系譜には、名もなき人たちの命がきら星のごとく輝いている。
いずれも現代に甦った命である。
いまは小さな輝きかもしれない。
しかしそれは大きな光りとなって、
これから生き続けるだろう……
大天白神社の入口。
同社は木戸忠朝の奥さんが、安産祈願のために勧請したと伝えられる。
まんだら堀。
某八百屋さんの前を流れているまんだら堀の一部である。
かつては人が飛び越えられないくらい広かったという。
羽生城の外堀に比定される。
『羽生城と木戸氏』冨田勝治著
戎光祥出版社
羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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