クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(13) ―羽生城主の判物―

2010年11月21日 | 羽生城跡・城下町巡り
「羽生城」という城があったならば、
そこを守る城主はどんな人物だったのだろうか?

戦国時代末、羽生城を守っていたのは“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
彼らは木戸範実と月清正光大姉の間から生まれた。
兄直繁が広田姓を名乗っていたのは、
そこに政治的意図があったと思われる。

一方、忠朝(ただとも)は最初河田姓を名乗っていたが、
やがて木戸姓を使うようになった。
羽生城主というと、おおよそこの木戸忠朝を指すことが多い。
しかし、忠朝が城主となる前に、
兄の直繁が羽生城主に就いていた。

2人はどんな姿をしていたのか、
残念ながら肖像画は残っていない。
現在、「冨田勝治展」(羽生郷土資料館主催)で展示されているのは、
忠朝遺臣の“不得道可”夫妻像である。
近世において、道可は羽生城代だったが城主ではない。

直繁と忠朝は一体どんな姿格好をしていたのだろう。
ぼくが羽生城に入った頃、
このことは大きな関心の的だった。

想像を膨らませてみるものの、
400年以上も前に生きた人物である。
うまくイメージできないし、夢枕に立つわけでもない。
「歴史は似た人物を登場させる」の法則に則って、
直繁と忠朝の生まれ変わり疑惑のある人はいたが、
むろん確証などない。

ところで、直繁と忠朝の文書は現存している。
僧侶の勝手還俗を禁じた判物で、
いずれも永禄9年に発給されたものだ(「正覚院文書」)。

直繁が1月26日、忠朝が3月21日に発給している。
永禄9年といえば、上杉謙信の小田城や臼井城攻撃があった年である。
勝手に還俗し、他国へ移る者を抑えるためだったのだろうか。

いずれにせよ、2人の判物を比べてみると、
肖像画はなくともその両者の人柄が浮かんでくるような気がする。
というのも、直繁の字は太くて力強いのに対し、
忠朝は流麗な字を書いているのだ。

木戸氏は武家歌人の家筋である。
忠朝の詠んだ歌は一句も現存していないが、
その判物の文字を見ると、彼もまた歌人だったのかもしれない。

一方、直繁の力強い字は無骨な印象さえ受ける。
忠朝と比べてしまうと、歌人としての雰囲気は感じられない。
忠朝が「学」の人であるならば、
直繁は「武」の人だったのかもしれない。

むろん、これはぼくの主観であり、
直繁にこそ「文」の香りを感じる人もいるだろう。
この2人の判物は、前述した「冨田勝治展」で展示されている。
ぜひ見比べて、その人柄を感じ取ってほしい。

400年以上も昔の人を窺い知るのはなかなか難しい。
現代人の感覚ではわからない時代的、環境的背景があるからだ。
しかし、広田直繁や木戸忠朝という人物が、
かつてそこに存在していたことをその判物は伝えている。



羽生城主の判物や生まれ変わり説について、
小説ではあるものの書いたことがある。
「羽生のひと」(高鳥邦仁)というタイトルで、
「文芸埼玉」77号に掲載されている。
参考までに……


<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
コメント (3)
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