「羽生城」という城があったならば、
そこを守る城主はどんな人物だったのだろうか?
戦国時代末、羽生城を守っていたのは“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
彼らは木戸範実と月清正光大姉の間から生まれた。
兄直繁が広田姓を名乗っていたのは、
そこに政治的意図があったと思われる。
一方、忠朝(ただとも)は最初河田姓を名乗っていたが、
やがて木戸姓を使うようになった。
羽生城主というと、おおよそこの木戸忠朝を指すことが多い。
しかし、忠朝が城主となる前に、
兄の直繁が羽生城主に就いていた。
2人はどんな姿をしていたのか、
残念ながら肖像画は残っていない。
現在、「冨田勝治展」(羽生郷土資料館主催)で展示されているのは、
忠朝遺臣の“不得道可”夫妻像である。
近世において、道可は羽生城代だったが城主ではない。
直繁と忠朝は一体どんな姿格好をしていたのだろう。
ぼくが羽生城に入った頃、
このことは大きな関心の的だった。
想像を膨らませてみるものの、
400年以上も前に生きた人物である。
うまくイメージできないし、夢枕に立つわけでもない。
「歴史は似た人物を登場させる」の法則に則って、
直繁と忠朝の生まれ変わり疑惑のある人はいたが、
むろん確証などない。
ところで、直繁と忠朝の文書は現存している。
僧侶の勝手還俗を禁じた判物で、
いずれも永禄9年に発給されたものだ(「正覚院文書」)。
直繁が1月26日、忠朝が3月21日に発給している。
永禄9年といえば、上杉謙信の小田城や臼井城攻撃があった年である。
勝手に還俗し、他国へ移る者を抑えるためだったのだろうか。
いずれにせよ、2人の判物を比べてみると、
肖像画はなくともその両者の人柄が浮かんでくるような気がする。
というのも、直繁の字は太くて力強いのに対し、
忠朝は流麗な字を書いているのだ。
木戸氏は武家歌人の家筋である。
忠朝の詠んだ歌は一句も現存していないが、
その判物の文字を見ると、彼もまた歌人だったのかもしれない。
一方、直繁の力強い字は無骨な印象さえ受ける。
忠朝と比べてしまうと、歌人としての雰囲気は感じられない。
忠朝が「学」の人であるならば、
直繁は「武」の人だったのかもしれない。
むろん、これはぼくの主観であり、
直繁にこそ「文」の香りを感じる人もいるだろう。
この2人の判物は、前述した「冨田勝治展」で展示されている。
ぜひ見比べて、その人柄を感じ取ってほしい。
400年以上も昔の人を窺い知るのはなかなか難しい。
現代人の感覚ではわからない時代的、環境的背景があるからだ。
しかし、広田直繁や木戸忠朝という人物が、
かつてそこに存在していたことをその判物は伝えている。
羽生城主の判物や生まれ変わり説について、
小説ではあるものの書いたことがある。
「羽生のひと」(高鳥邦仁)というタイトルで、
「文芸埼玉」77号に掲載されている。
参考までに……
<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館
羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
そこを守る城主はどんな人物だったのだろうか?
戦国時代末、羽生城を守っていたのは“広田直繁”と“木戸忠朝”である。
彼らは木戸範実と月清正光大姉の間から生まれた。
兄直繁が広田姓を名乗っていたのは、
そこに政治的意図があったと思われる。
一方、忠朝(ただとも)は最初河田姓を名乗っていたが、
やがて木戸姓を使うようになった。
羽生城主というと、おおよそこの木戸忠朝を指すことが多い。
しかし、忠朝が城主となる前に、
兄の直繁が羽生城主に就いていた。
2人はどんな姿をしていたのか、
残念ながら肖像画は残っていない。
現在、「冨田勝治展」(羽生郷土資料館主催)で展示されているのは、
忠朝遺臣の“不得道可”夫妻像である。
近世において、道可は羽生城代だったが城主ではない。
直繁と忠朝は一体どんな姿格好をしていたのだろう。
ぼくが羽生城に入った頃、
このことは大きな関心の的だった。
想像を膨らませてみるものの、
400年以上も前に生きた人物である。
うまくイメージできないし、夢枕に立つわけでもない。
「歴史は似た人物を登場させる」の法則に則って、
直繁と忠朝の生まれ変わり疑惑のある人はいたが、
むろん確証などない。
ところで、直繁と忠朝の文書は現存している。
僧侶の勝手還俗を禁じた判物で、
いずれも永禄9年に発給されたものだ(「正覚院文書」)。
直繁が1月26日、忠朝が3月21日に発給している。
永禄9年といえば、上杉謙信の小田城や臼井城攻撃があった年である。
勝手に還俗し、他国へ移る者を抑えるためだったのだろうか。
いずれにせよ、2人の判物を比べてみると、
肖像画はなくともその両者の人柄が浮かんでくるような気がする。
というのも、直繁の字は太くて力強いのに対し、
忠朝は流麗な字を書いているのだ。
木戸氏は武家歌人の家筋である。
忠朝の詠んだ歌は一句も現存していないが、
その判物の文字を見ると、彼もまた歌人だったのかもしれない。
一方、直繁の力強い字は無骨な印象さえ受ける。
忠朝と比べてしまうと、歌人としての雰囲気は感じられない。
忠朝が「学」の人であるならば、
直繁は「武」の人だったのかもしれない。
むろん、これはぼくの主観であり、
直繁にこそ「文」の香りを感じる人もいるだろう。
この2人の判物は、前述した「冨田勝治展」で展示されている。
ぜひ見比べて、その人柄を感じ取ってほしい。
400年以上も昔の人を窺い知るのはなかなか難しい。
現代人の感覚ではわからない時代的、環境的背景があるからだ。
しかし、広田直繁や木戸忠朝という人物が、
かつてそこに存在していたことをその判物は伝えている。
羽生城主の判物や生まれ変わり説について、
小説ではあるものの書いたことがある。
「羽生のひと」(高鳥邦仁)というタイトルで、
「文芸埼玉」77号に掲載されている。
参考までに……
<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館
羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/